第二話 2

 光一とミシェルは能代で佐沢に別れを告げ、能代からJR五能線に乗り、東能代まで行き、そこで奥羽本線に乗り換え、八郎潟を通って追分まで上った。追分でさらに男鹿線に乗り換え、男鹿半島へ向かった。
 船川は、日本海側をはしる男鹿線の終着駅だった。港では何杯もの漁船がいきかい、小体なエンジンの音が次々と爆ぜ、無数のウミネコが喧しく付き従っている。
 港から少し入ったところに、白壁のこじんまりした民宿があった。大きな木の看板にはS館という宿の名が、漁師の民宿らしい素朴で豪快な墨文字で記されていた。玄関の前に二台の白い軽トラックが止っていて、荷台の緑色のシートを外して作業をしていた中年の男が、遠くから光一とミシェルが歩いてくるのをじっと見ていた。
 民宿の玄関を入って光一が声をかけると、中年の女の声に迎えられた。聞き覚えのある声は、先日の電話で耳にしていた宿の女将だった。
 いきなりの電話で、しかも今ではほとんど訪ねてくる人もない老婆に、取材など初めての光一がぜひお会いしたいと言っても、女将は受話器越しに戸惑っているふうだった。婆さんに一体何の用かと頻に訊いてくる。光一が「秋田船方節」のことでお聞きしたいと言っても要領をえず、そのまま電話を切られてしまった。
 後日、あらためて光一は観光客をよそおってふたたびS館に連絡を入れた。また女将が電話に出た。
 ――日本人と外国人の二人なのですが、一泊できますか?
 S館へ入り、小さな木枠の窓のある受付で宿帳に記帳すると、食堂を兼ねたような小さなロビーに、海からの陽光がみちていた。窓際のテーブルに、藍染の割烹着の老婆が、刺繍の小さい輪を置いて、朱色のビロード張りの椅子の一つに座って海を見ている。壁には寿司屋で見るような魚のイラストのポスターが貼られている。光一は老婆の、海亀のように皺だらけの顔を一瞥し、彼女が井川本人と見当をつけた。まだふさふさした白髪のてっぺんを着物と同色のヘアバンドで結び、顎の下に薄い布を巻いている。
 光一はやむなく、自らのキャラクターとは間逆の、誰にでも気軽に声をかけるフレンドリーな青年を演じながら。老婆に近付いて声を掛けた。観光客が民宿の老婆と話し込んだところで、不審がる人はいない。
 ――おばあちゃんこんにちは。
 ――こんにちはぁ。
 老婆は上身をやや傾け気味にして、光一に挨拶を返した。光一はミシェルが自分を真似て日本語で挨拶できるよう、ややゆっくり挨拶する。
 ――どうもはじめまして。
 ――はじめでございます。
 老婆は礼儀正しく頭を下げた。
 ――民謡のことを調べている光一といいます。こちらはミシェルです。
 ミシェルは縁無し眼鏡をかけた人懐っこい笑みで長身を折り挨拶した。
 ――ドウモハジメマシテミシェルです。
 ――はぁ……。
 と老婆は消え入るように力なく、この歳で何かありがたい、珍奇なものでも見せてもらったように二人に会釈し、キリストでも仰ぐようにミシェルを眺めた。
 光一は老婆の右隣の椅子に、ミシェルは対面に腰掛けた。音楽家は鞄の中からテープレコーダーやらDATやらの機器を取り出した。
 ――おばあちゃん、あのね。
 んー、んー、と老婆は頷き、右腕を肘掛に載せて半身を支えながら光一の方へ少しだけ身を寄せた。
 ――こちらのミシェルさんが、秋田船方節っていう歌をちょっとテープで聞いたことがあって……、こういうふうに歌うんですよ。
 光一の合図でミシェルがテープレコーダーを再生した。
 小さなスピーカーから古い録音でノイズが混じる曇った音が流れた。厳しい自然に吹き荒ぶようなヒョロヒョロという尺八と、三味線の音色が重なりあいながら、節を刻む。
 老婆はじっと耳を傾けている。
 そこへチンチンチンと打ち鳴らす、鳴り物が加わった。
 そのときすでに、どこでどんなタイミングだったか、椅子の肘掛けにあった老婆の両腕が緩やかに宙に舞っていた。そしてテープからの、

 

 ハア ヤッショ ヤッショ

 

 の唄ばやしと絶妙のタイミングで声を合わせ、手拍子を打った。

 

 ハア~、アアアア~

 

 歌声の、素朴ではあるが潮風をはらんだ帆ほども張りのあるトップノートの高音が、光一の頭頂まで澄みきって響いた。テープの声と老婆の声が、寸分の狂いなく一致している。テープの声がそのまま老婆の口から流れ、老婆の声がそのままテープを通して流れているとでも錯覚する。ミシェルは微動だにしない。歌詞を辿る歌い手と、掛け声をかける唄ばやしのやりとりが繰り返される。

 

(ハア ヤッショ ヤッショ)

 

 三十五反の
(ハア ヤッショ ヤッショ) 
 帆をまきあげて
(ハア ヤッショ ヤッショ)

 

 古い録音の歌声に導かれ、老婆はその節の端々に「んだ、んだ」と付け加えて、憶い出しながら歌うその顔からはたちまち生気が迸り、縮んで小さくなった全身に俄かに若さが漲った。窓辺から沖の彼方を眺める小さな双眸が、濡れているように光っていた。

 

 鳥も通わぬ 沖はしる
 その時しけに 合うたなら
(ハア ヤッショ ヤッショ)
 綱もいかりも 手につかぬ
 今度船乗り やめよかと
(ハア ヤッショ ヤッショ)

 

 民宿の階段を勢いよく駆け下りてくる音が聞こえる。振り返ると、まわりに子供たちや、ちょっとした聴衆ができていた。そこに光一が先日から電話でやりとりしている宿の女将もいたが、そのやや驚きながらもあたたかい眼差しは、さては井川に会いたがっていたのはこの二人だったかと、事情を理解したとでもいったものだった。

 

 とは云うものの 港入り
 上がりてあの娘の 顔見れば
(ハア ヤッショ ヤッショ)
 辛い船乗り 一生末代
 孫子の代まで やめられぬ
(ハア ヤッショ ヤッショ)

 

 尺八の音が余韻を含んで曲を締めた。

 ――ヤッショ、ヤッショと、こして歌ったもんだ。
 と老婆はさらに手拍子をし、懐かしさに皺だらけの顔を歪ませた。光一はゆっくりと声をかける。
 ――海に、出る人っていうのは、男の人っていうイメージがあるんだけれども……。
 老婆はへっへっと野太い声でユーモラスに笑った。光一は問いかけた。
 ――おばあちゃんたちの時っていうのは、どうして女の人が海に出たんですかね。
 ――ぬぁ。昔だばな、ここだばな、あの、サザエどが、アワビどがいっぱいあるがらと、いったって、全部で、たべるだけ金にならないもんだから……。
 老婆は皺くちゃの指を銭の形に丸めながら話した。
 ――男の人はみな出稼ぎにいぐの。
 ――出稼ぎにね。
 ――ああ、北海ドゥ。まずおもに樺太どが、カムシャッカだどが、そういうどごろさ行く人が余計お金になるから、んだがら、おなごの人が働かなければならなかった。
 光一の通訳に耳を傾けていたミシェルが、口を開いた。
 ――彼女に伝えてくれ。「秋田船方節」の歌い手を探している、と。
 そのミシェルのあまりに真剣な表情をうけて、光一は井川に彼の熱意まで伝わるような通訳を心がけた。
 老婆は、初め光一の話がよくわからないようだった。わからないというかわりに、また「へっ、へっ」と滑稽に笑った。
 そのとき、かたわらで様子をうかがっていた宿の女将が老婆の左隣に回って、彼女の耳に口を近付けた。光一は100歳になるという彼女の耳が遠いことを忘れていた。
女将が老婆に何やら聞き取れない言葉を耳打ちし、老婆もまた土地の言葉を女将に返した。
 ――婆ちゃんは、民謡の歌い手は知らないって言ってます。ただ秋田の川反に、館花という男が詳しいから、彼を訪ねたらいい、と言っています。

 

 二人は、秋田市の繁華街「川反」で居酒屋を経営しているという館花の開店前の時間に合わせて、夕方早くに船川を後にした。
 秋田へ向かうクルージングトレイン「リゾートしらかみ」に乗り、追分から土崎へ向かうとき、展望用に大きめに設えられた車窓からの夕景色が、いよいよ荘厳さをましてきた。遠くの岱地までひろがる田園風景にかかる夕雲が、いましがた沈んだばかりの陽の名残をうけて、火の海のように燃えだした。あるところでは燃え、あるところでは燻り、またあるところでは焦げながら、空はその棚引く雲間の波の揺蕩いを刻々変化させていく。
 光一は、こんな夕景色を長らく目にしていなかった気がした。この地を訪れなければ見られなかっただろう無二の空。その夕景色に、おのずと井川の歌った「秋田船方節」が重なった。