第二話 1

 ソラガフルヨウダッタ
 白いものが混じる眉の下の静かな眼差しを向けて、佐沢のしわがれ声が、上空を飛ぶヘリの機内で騒音になかばかき消されながらヘッドセット越しに聞こえてきた。
 光一は耳慣れない方言を聞き違えたかと、小型マイク付きのヘッドセットを茶色の長髪の頭にかけ直し、自分とは祖父ほども年の離れた佐沢の言葉を待った。それでも言葉は幾度か光一のなかで反芻され、意味と輪郭をなしていく。……
 
 ソラガフルヨウダッタ
 ソラガ フルヨウダッタ
 宙が 降るようだった
 
 すでに佐沢は雲のいきかう窓外へ顔を向けている。ヘッドセット越しに英語が聞こえてきた。
 ――通訳してくれ、コウイチ。
 ミシェルは広い額に横皺のある血色のいい顔をしていた。その小さな縁なしの老眼鏡をかけた目が光一と佐沢を行き来するたびに、ヘッドセットからはみ出したストレートの金髪が揺れた。髪の隙間から薄くなってモルモットの赤子みたいな色の頭皮が見える。
 ――あのニュースさ。今年の十一月、日本でかつてないほどの巨大流星群が見られるっていうから、白神山地でも見られるか訊いたんだ。そこでは、宙が降るように見えるのだとか。
 佐沢は目尻に幾重もの皺を刻んでにこやかに笑い、窓外を指した。
 身を乗り出した光一に、彼方の山々まで続く大パノラマが見渡せた。すぐ下の粕毛川からの水を湛えた三日月形の素波里湖は陽光にきらめき、湖面をヘリコプターの機影が流れていく。
 反対側の窓へ目を転じると、左に獅子鼻岳、その右に蝦夷岩山、独鈷森と、ヘリのすべての窓から山々が畳々と連なっているのが一望できる。
 やがて前方右に、残雪を冠した山の頂が迫ってきた。
 ――あれが駒ヶ岳。まあこのあたりでも星なんて降るくらい見られるよ。
 佐沢の言葉に、光一は、かつて山の彼方へ消えた流星の痕跡でも探すように山裾へ視線を走らせた。
 ――星が降るほど見られる場所は、白神山地でも奥深く、山の神が宿る森にあります。近くなったら、知らせます。
 駒ヶ岳の陰になった北側の裾野に、緑のなかにそこだけぽっかり開けてオレンジ色に輝く空間が現れていた。目を凝らすと、フィールドの央ほどに、白い蛇のように板切れを渡しているのが見える。
 佐沢は、呟くように言った。
 ――田苗代湿原。一万年前は湖沼だったろうといわれています。あのオレンジの花はニッコウキスゲ
 野原が輝いて見えたのは、湿原に咲き乱れる無数の花々だった。光一は、この地が一万年前は湖沼だったという佐沢の話に、かつて湖は空の鏡面となって、夜には満天の夜空をその水面に映していたさまを想像した。湖は空を見つめ、空は湖を見つめ、たがいのなかにたがいの美しさを見いだし、悠久の時のなかで睦みあっていたのかもしれない。

 やがて湖は涸れ、野原が現れ、かつて湖面に映っていた星々に似た黄色いニッコウキスゲの群落が現れた。光一はそんな花々が、かつての宙の記憶を懐かしみ、あるいはこれまで宙から零った夥しい数の流星が地上の花々に転生したように見えだした。

 

 ――あっ、ニッコウキスゲ
 素子はあのとき、ガイドブックで見た旅の目的である花々の出現にはしゃいでいた。
 曇り空の下、ニッコウキスゲの群落を背にして立つ彼女に、光一は一眼レフのカメラのレンズを向けた。いつも光一には無防備な素子は、ときに彼の奥底を覗くような表情をするときがある。カメラを向けているのは光一なのに、逆に二つの目で覗き込まれ、見透かされている錯覚をおぼえながら、彼はシャッターをきる。もしかしたら彼女も光一と同じく、やがて訪れる光一からの一方的な別れを予見していたのかもしれない。
 白神山地へ入るため、あの朝は二人でかなりの早起きをした。あとになって素子が写真屋でそのとき撮影したパノラマ写真を現像したら、自分の顔が寝起きでむくんでいると写不満を言った。
 それから光一は素子だけでなく、自分がかつて存在した社会にいた人々と、まったく連絡をとらなくなった。ただ、現在でも心の中だけでの交流が続いている。みんな今、どうしているだろう。生きているのか死んだのか、それは光一にとってさした問題ではない。死んだと知れば、驚き、少しは悲しむかもしれない。何も知らなければ、人は何も感じない。
 ……僕は生物学的には生きているが、社会的にはほとんど死んでいる。
そう考えることは光一を安心させた。誰とも会わずにすむ、話をせずにすむ。彼にとって至上の瞬間。すべての言葉は光一にとって無意味だった。
 かつて抱いていた、社会的に死ぬことへの漠然とした憧れ。自分が、あたかも透明人間になることへの願い。それがいつしか実現していた。光一はいつも一緒にいた素子や、知人たちの前から姿を消し、遠くから彼女を、彼らをただ想うことでみんなを「見る」ことにした。
 ひとたびその世界が実現すると、光一はその世界を守ろうとした。彼は、外出するときも、家にいるときでさえ、できるだけ人に会わないためのゲームをしていた。
そうして彼が何も考えずにすむことに安住していたとき、光一がいつも電源を切っている、絶対に着信しない携帯電話がとぎれとぎれに振動した。皆が死んだと思っていた光一に、着信が来てしまったのである。
 携帯の画面に松木という名前が表示されるが、すぐには憶い出せない。ひさしぶりに電話というものに出ると、中年の、業界人らしい男の低い声が言った。
 ――ごぶさたしてます、やっとお話できました。
 光一は声の記憶を辿る。
 ――じつは、明日からお願いしたい仕事がありまして。
 ――明日ですか。
 光一は相手の正体も、話の内容もわからないまま、いきなりの依頼に反応せざるをえなかった。フリーターの今なら、どんな仕事にせよ、その依頼なら聞いてしまう。松木は続けた。
 ――今でも、秋田にお住まいですか?
 今でも。……彼は光一がずっとここに住んでいるのを知っている。もしかして、ここからなかば離れられないでいることも。
 ――明日、秋田空港に一人の外国人が到着します。
 空港、外国人……。それで光一は理解した。
 以前、大学の工学資源学部に在学中、教務主任に語学力をかわれて通訳のアルバイトをしていた。あの頃、たしか小遣い稼ぎに、東京のエージェントにも登録した。
 ――ああ、僕にそのガイドを?
 松木によれば、外国人とは「ミシェル」というミュージシャンで、光一の知らない名前だったが、彼が組んでいるグループというか、ユニット名を聴いて愕然とした。世界的に名の知られた音楽集団で、これまでアフリカの森林に5000年の太古から伝わる伝統歌唱の音源を、ユネスコの科学者たちに協力を依頼して採集し、最先端のテクノロジーをもちいて、現代の音楽に再構築するプロジェクトなどで知られていた。
 あるとき彼はニューヨークの録音スタジオで「絶滅の危ぶまれる種」という曲を仕上げた。その直後、いつもは聞こえないジェット機の音に続いて大轟音がスタジオを揺らした。数分後、スタッフと屋外へ出たミシェルは、地獄のような爆音が、歩いて数分の世界貿易センタービルの、二つのタワーからのものであると知る。やがて録音スタジオは、巨大ビルの倒壊による大量の埃をまともに被った。彼はいくつもの楽曲を生み出したスタジオと、膨大な時間を費やして生まれたばかりのとうとい作品を同時に喪った。
 ミシェルはフランスのフランドル地方にある自宅兼スタジオで、「絶滅の危ぶまれる種」をもう一度最初から録音し直した。もともと楽曲は7分ほどの作品だったが、メッセージ性のある音楽としてだけでなく、もっと広がりのある、一つの映像作品にすることになった。
 ミシェルはその映像の撮影の地として、地球上の絶滅危惧種「レッドデータ」に数えられ、指定されている稀少な動植物が存在し、類いまれな多様な生態系をもつ、日本の世界自然遺産白神山地を選んだ。山地の真上をヘリコプターで低空飛行し、空から原生林の眺めを空撮するという。約65000ヘクタールの広大な山地帯を、上から下まで貫いて飛ぶというのだ。
 光一は松木の話を、ただ黙って聞いていた。もう何年かぶりに耳にし、心に響く「シラカミ」の名。十年前に世界遺産に登録されてからは、多くの観光客がテーマパークさながらにこの地へ押し寄せ、やがて飽きられた森。
 かつての光一も、その一人だった。素子と一緒に、あの聖なるマザーツリーの森を訪れるまでは。その奥山に土地の人すら立ち入らない「山の神が宿る森」の存在を知ってから、光一の中でシラカミは土地の固有名詞を越えて、未踏の原生林を残す、夢の世界への分岐点となった。そこへ行けば、自分の何かが変わる気がする。やがて歳月は過ぎ、夢の世界への分岐点には雑草が生い茂り、レールは錆び付いていた。
 光一の沈黙を気にしてか、松木は言った。
 ――心配いりません。お願いするのは通訳だけです。ただ、地質学の知識なんかもあればいいので、大学でその分野を学ばれたあなたにお願いしたい。白神山地に詳しいガイドは、すでにある人に頼んでます。ボランティアで自然観察指導員をされている佐沢さんという方で……。

 

 ――絶滅の危ぶまれる種について知りたい。人間以外に……。
 長い金髪が、どこかの先住民族をイメージさせるミシェルが、ヘリの中で言った。
 ――「絶滅の危ぶまれる種」という楽曲は、一度は喪われてしまった。けれど、同じものは作れないし、作るつもりもない。当初、曲には僕のそれまでの音楽の流れを受け継いで、語り口に自然や環境についての心地好さがあった。でも生まれ変わった楽曲は、独得の哀感と重量感を持ったんだ。それはハードでスピードのある、エネルギーにみちたテクノビートに、ロックのパーカッションやリズムパートを融合することで、より緊迫感のある、人類への警鐘の曲になったのさ。
 ミシェルは話の合間に、たびたび窓の遥か遠くへ視線をやった。縁無しの眼鏡に、晴れ渡った空が映っている。数日降り続いた雨に足止めをくった出発だったが、その空が、今こそ飛び立つ時と告げていた。ここではすべて天気まかせなのだ。
 ヘリの機内で案内人の佐沢が大きな地図を広げた。白神山地を真上からとらえた山岳鳥瞰図だ。飛行ルートの選択を任された佐沢は、太い浅黒い指で地図上を指した。
 ――いま、この藤里町の上空を飛んでいます。これから、まず進路を北にとって、白神山地世界遺産登録地の自然環境保全地域普通地区、小岳の上空を飛び、ひとたび秋田県境稜線を越え、青森県側へ上ります。しばらくそのまま北へ飛行し、岩木山の手前までいったところで左に転回して、今度は南西の方角、白神山地の核心部へ向かって飛び、粕毛川上流部に出る。さらに尾根を南に乗っ越して水沢川沿いに能代方面へ飛行する。
 昔はねえ、そんな険しい道なき道を、地図も磁石も使わないで、自らの記憶をたどって精確に行き来する、そんな森の民がいたもんです。今ではそんなルート知ってんのは、私みたいな年寄りだけになってしまった。
 ミシェルが同行した外国人の撮影クルーに合図を送った。髭をたくわえたその男がケーブルを繋いだノートパソコンを操作すると、機体に外付けされた数台の撮影用カメラが動き、後部座席にあるモニターのそれぞれに、地上の緑が様々な角度で映し出された。その画像から、ヘリが湿原を抜ける様子や、青森県境稜線の冷水岳にかけて、戦中から戦後の乱伐の跡が、ダケカンバとチシマザサの群生となって、広大な山腹を占めているのが見える。崩落跡も何箇所か確認できた。
 やがてヘリは青森県側へ入った。はるか前方に、円錐形の秀麗な稜線をもつ津軽富士、岩木山が現れていた。ヘリはゆっくりと左へ展開し始め、それにつれて陽射しがコックピットに差し込んできた。その直後、ヘッドセットからミシェルの嘆声が聞こえた。
 ……光りの彼方に、しだいにおぼろげな像が現れだした。眼前に、視界がどこまでも開けるような巨大な眺望が広がった。山並みが、灰白色、水色、薄紫、黄緑色、緑、深緑といった色彩の階調をたたみながら、その全貌を現している。
 ――これが、白神です。
 老案内人はニヤリと笑った。
 すぐさま光一は山岳鳥瞰図を、今度は逆向きにして、遥か遠方の山々と見比べた。焼山、大臼岳、二つ森、雁森岳、そして先ほど通過した小岳といった、1000メートル前後の峰々が残雪を冠して畳々と続き、その遥か彼方には、白神岳、そして白神山地最高峰の向白神岳の連山が、遥か南西の空を劃していた。森羅万象のあらゆるものが響き合い、きわめて原初的な、有史以前の魂の合唱が聞こえてきそうだった。
 白神を鳥の目で俯瞰する体験と光景に、光一はサングラスを上げ、思わず呟いていた。
 ――すっげえ。
 機体が轟音とともにスピードを上げると、すぐ下には深い峡谷、奈落の底が大口を開けていた。あまりの絶景に、光一はいきなり体を引き伸ばされるような高所恐怖を覚えた。地の底には、ここからは糸ほどにしか見えない細い沢が流れている。
 機体が谷底へ落下するように急激に高度を下げ、山の斜面すれすれに飛びながらどんどん峡谷へ降下し始めた。ヘリの風圧で薙ぎ倒された原生林が、反動で襲いかかってくるように機体のすぐ横を擦過していく。
 撮影クルーの外国人スタッフが専用の端末を操作し、ミシェルの縁なしの老眼鏡にディスプレイが映る。ヘリの機体に外付けされた数台のモーションコントロールカメラが、コンピュータ制御でたがいに同調しながら、触手のように、各々別の角度から白神の全貌をとらえようといっせいに動き出した。濃い緑、薄い緑、輝く緑、暗い緑……。野生から切取られた色々の緑の断片が、後部座席のモニターに順々に映し出される。
 やがてヘリは原生林の中心へ突入していった。それにつれて、眼下に広がるブナの樹海の様相は、山神の激情をあらわすかのように、にわかに険しさを増しつつあった。山はいきなりの闖入者に、怒りを噴出させているようだった。
 いよいよ谷底がすぐ下に迫ってきた。機体はさらにスピードを上げ峡谷へ滑空すると、水面ぎりぎりまで降下し、次の瞬間には発条で跳上るように斜めに急上昇した。そのまま次は曲がりくねったV字型の峡谷に沿って、機体を左右に大きく揺らしながら飛行しだした。沢の水が陽光を眩しくはねかえす。
 そろそろ機体は白神山地の核心地域、世界自然遺産登録地へ入りつつあった。
 ……「あの森」を近くに感じる。
 光一は人知れず興奮していた。
 佐沢は白神に語りかけるように、ゆっくりと話し始めた。
 ――白神山地は、大昔に日本海に沈んでいた日本列島から、急激に隆起してできたんです。日本列島の中で最も早く陸地になった場所の一つで、高く高く盛り上がろうとする性質を強く持っています。
 光一はファイルブックにペンを立て、聞いた内容を書きとめ、要点をまとめて話す逐次通訳を始めた。光一は機内に、秋田県内の絶滅危惧種1235種を網羅した最新のレッドデータブックを含め、地質学や生物学の専門書を準備していた。分厚い書籍のいたるところからは付箋紙がとびだし、ファイルブックには几帳面にメモ書きをしていた。
 老案内人は話の所々で言葉につまっては、ちかごろ物忘れがひどくなって、と申訳なさそうな顔をした。たしかに白神の年代などが、光一の資料と違うときもあった。光一は精確な年代と名前などを補って通訳した。

 「山地が日本海に沈んでいたのは800から200万年前頃まで、とくに日本海にせまる、岩崎から八森にかけての海岸線は隆起量ももっとも大きくて、十数万年前の海成段丘の分布高度が最高140メートルにも達している。現在でも、少しずつ隆起を続けているが、理由はわかっていない。ほとんどの地盤は、海中時代だった第三紀中新世の2400から510万年前の堆積岩で成り立っていて、地質は、花崗岩を基盤に堆積岩とそれを貫く貫入岩で構成されている」

 あらかじめ下調べにかなりの時間をかけていたおかげで、光一は通訳をなんとかこなすことができ、また大学にいた頃が憶い起こされた。
 授業で専攻した地質学とは、主に資源地質学とエネルギー地質学だった。そしてその先には、地下資源の探査や開発、地震予知などの災害防止、さらに新エネルギー資源や未利用資源の探査と開発、それに関連した仕事がある筈だった。
しかし光一は、川底の砂粒や砂金を、鉱石の中の光斑を、黒曜石の謎めいた光沢に、ただ見惚れていただけだったのかもしれない。さらにもっと幼き頃を溯って思うに、川底の砂粒や砂金には宙の恒星を、鉱石を傾けたときの光斑に銀河を、黒曜石のガラスの底に宇宙地図を、月長石に真空で咲く幻のりんどうを、黄玉や水晶や鋼玉に銀河の河原の礫を、そして金剛石の煌めきに、流星の光りを見ていたのかもしれなかった。


 先日、光一とミシェルは佐沢に導かれ、歩いて白神の森へ入り、沢へ下りた。佐沢はフキの葉で作ったコップに沢の水を汲んでくれた。岩と岩の間を飛び、ついには渓流の中を水に浸かりながら歩く「渡渉」をした。ハイキングシューズをはいた光一が気色悪さと冷たさを感じていると、佐沢は、もともと山道の少ない白神山地では、川を歩くのが一番ラクなのだと教えてくれた。川歩きの妙な感触は、やがて快感へと変わっていた。
 二つ森東側の分水嶺に位置する鞍部を越え、粕毛川源流に移動する途中の善知鳥沢で、そちこちにイワナの魚影が見られた。
 休憩時間、沢の大きな岩の上に三人で腰をおろした。川原の乾いた巨岩のぬくもりを感じる。佐沢はおにぎりをほおばりながら、拾ったばかりの貝の化石を二人に見せ、それが9000万年前の貝の化石だよと、こともなげに言って笑った。
 たしかに白神山地のほとんどの地盤は、第三紀中新世の堆積岩で成り立っているが、第三紀中新世以前の古い岩石も見つかっている。地質学では「白神岳花崗岩類」と呼ばれ、花崗岩、花崗閃緑岩からなっていて、約9000万年前の中生代白亜紀後期にできた。実際、追良瀬川から白神岳山頂に突き上げている沢は、土地の人に「ウズラ石沢」と呼ばれていて、岩盤の花崗岩を、ウズラの卵の表面に刻まれた文様に見立てたのがその名の由来だという。
 さらに不思議なできごとがあった。森の中での撮影に、その中継基地として、廃屋になっていた昔の炭焼き小屋を使いたいとミシェルが提案していた。そこで、朽ちて今にも崩れ落ちそうな小屋に補強工事が施されることになり、三人も現場に立ち会った。
 地元の作業員が、ちょうど近くの地面を掘っていたときだった。地表から二メートルほどの位置に、太いブナの幹が埋もれていた。掘り出されると、埋木は新鮮な白い断面を示していた。光一は言った。
 ――倒れたばかりの木でも、もう地面のなかに埋まっているんですね。
 佐沢は、そうではないというふうに笑った。
 ――それは、倒れてから数千年は経ってますな。
 数千年はいくらなんでも大げさだろうと、光一はその言葉を疑った。老案内人の度々の物忘れや、年代の不正確さ、その愛嬌のある話し方からしても、それが東北地方に数多く存在するホラ話のようにしか聞こえない。佐沢によれば、そのブナは数千年前にたまたまこの湿地に倒れこんで、腐らずに現在まで保存されていたというのだ。
 しかし光一はふたたび埋木を見て、言葉を失った。
 ――コウイチ、どうした。
 ミシェルの問いかけに、光一はすぐには応えられなかった。ブナの白い断面が、魔法にかかったとしか思えないように、みるみるうちに黒ずんでいったのだ。
 ふと光一は、埋木についた泥に気付いた。そして、「泥炭」という言葉を憶いだした。泥炭は湿地帯の表面の湿った泥で、水分を多く含んでいるために物質の酸化を進みにくくする。以前に大学の工学資源学部で実験したことがあった。
 数千年の昔にそこに倒れたブナが、泥炭というタイムカプセルの中で永い眠りにつき、空気にふれた瞬間から酸化が始まり、すぐに黒ずんでいったのである。その空間で、たった数秒のうちに数千年の時間が通り過ぎていくのを、光一はまのあたりにしていた。ブナは時空を越えた太古の眠りから目覚め、数千年後の未来を一瞬だけ見て、そこが遠い記憶に刻まれた同じ森であるのに安心したように、朽ちていった。
 いつも間違えてばかりいるわけでないヨ、とでも言いたげに、老案内人は横目でニヤリと笑っていた。

 

 ヘリの機内では、老案内人の話に、それでも光一の補足付きの通訳が続いた。
 ――白神山地を代表する植物はブナですが、日本列島でブナ林が形成されたのはおよそ80万年前と推定されています。ブナは冬に雪がたくさん降る気象条件を好む植物で、本州の日本海側の気象条件がそうなったのが、今からおよそ一万年前。したがって現在のようにブナ林が日本海側に偏った分布になったのは、今から8600年くらい前だろう、といわれています。そして白神のブナの誕生はおよそ8000年前の、縄文時代草創期であるとされています。

 通訳しながら、光一は数億年前の古生代にまで溯り、数千万年という時間軸を縦横に行き来し、白神の進化を辿った。森の年輪を数えるように、太古の白神山地の姿を想起していた。どこからか、大地母神をおもわせる女性独唱のメロディが聞こえてきそうで、懐かしさとともに近未来とも超次元とも感じられる独得のゆらぎをともなった。
 そのうち光一の目には、時空が歪みはじめ、風景が変容し、外界が抽象化し、世界の意味というものが幾通りにも変化していくように見えた。晴れ渡った空、たなびく雲、地上にひろがる森、高い崖、すぐ下を流れながら陽光をうけきらめく沢は、それぞれ雲や崖や森や沢といった、人間の記号としての名前を失い、概念のたがを外され、不可思議な何ものかに姿を変えていた。それは動物の視点に近かったのかもしれない。ただ、大いなる恵みを与えしもの、それ以外の何ものでもない……。観念上では時空の壁が光りの速さでどんどん遠のき、地平線の果てから果て、空から地までの、物体をともなわない色だけの風景が灰白色、水色、薄紫、黄緑色、緑、深緑と無限の階調をたたみながら広がっていった。そしてヘリは、何億、何兆世代という生命の営みと生まれ変わりを見とどけながら時空を越えてたゆたう、一艘の飛行艇となっていた。
 晴れた空にそこだけ霧が漂っていた。深い谷が入り組み、谷壁が急斜面をなす上空を旋回しているうち、霧はどんどん濃さをまし、やがて眼前に落差の大きい巨大な水の流出が眺められた。佐沢は話を続けた。
 ――あの滝を見てください。地形の特徴として、あんな大きな滝も多く、景観にもすぐれています。ブナが大量の水を吸い上げるから、森にはいたるところに湧き水が出ている。とくに雨降り後の、今日みたいな日には、いたるところに滝が生まれる。地下水が原因で、崩落地や地すべり地形が多いのも特徴で、地すべりによってできた平坦な場所にブナが成育し、純林を形成したというわけです。ブナは山腹の、比較的土壌の発達した地域に、もっとも広い面積を占めます。
 光一の資料には、沢沿いの水際では流水の影響などで植物の成育環境が異なり、ヤナギ類が生育し、それより少し上の斜面では、大雪や雪解け水による影響で、サワグルミ林ができる、と記されていた。土壌がうすく、多少岩が点在する場所ではミズナラが交じり、さらに岩からなるやせた乾燥ぎみの尾根などではキタゴヨウ林やクロベ、ネズコに変わる。尾根筋から山頂付近は浸食を受け、比較的なだらかな地形になっている。しかし山頂付近は冬に雪が積もり、さらに強い季節風を受けるため、ブナなどが大きな森林をつくることができず、ミヤマナラやダケカンバの低木林となる。山頂付近に、一から三メートルくらいの低木林を形成するのがミヤマナラで、地をはうように生育する落葉低木で、葉は小さく、多数の鋭鋸歯がある。
 ――白神山地世界自然遺産にふさわしい豊かな生態系をもつだけでなく、さらなる奥深さを秘めています。ここには氷河期からの植物や、雪深い厳しい山地に適したブナなど、深山ならではの冷涼な環境を好む動植物が多いのは確かです。ところがその一方で、白神にはそれらとはまったく逆の、南方系の蝶も生きています。
 佐沢の話に、光一は母校の大学の図書館から借りた専門書にまったく同じ内容が記されていたのを憶いだした。同じ大学で蝶の生態を教えていた藤木なんとかという先生によって書かれ、大学の図書刊行会から出版された本だった。その本には、寒い白神山地に、暖かいところにいる蝶が生きている理由について、それは蝶と植物の関係にあり、白神山地日本海沿岸には、対馬暖流の影響で、暖地性の植物が自生していて、この植物が、南方系の蝶の幼少期間のエサになる、と記されていた。
 光一は通訳しながらも、サングラスの奥の目はしっかりとヘリの彼方前方へ向けていた。いつしか忘れていた、土地の人すら立ち入れない「山の神が宿る森」を、この目で確かめてみたいという想い。それを見たとき、自分のなかで何かが変わると思える。その地に辿り着くには、たしか高い尾根を越え、深い谷があった筈だ。その谷の反対側には、岩を露出した高い崖。谷はさらに入り組んで狭くなり、その向こうにさらに高く聳える崖がある。その崖の彼方に、夢の世界への入り口がある。……
 ヘリが尾根上を通過するところで、佐沢はブナ林を指さした。
 ――あんな老木には、ヤシャビシャクという薬草が寄生します。ランショウとも呼ばれ、秋田県では絶滅の恐れはありませんが、国際的、国内的に保護を要するとされる種、過去の個体数・分布が著しく減少した絶滅危惧種に数えられています。
 光一が通訳しながら指さす方向へ、ミシェルは撮影クルーの外国人スタッフに撮影の指示を出した。
 深い谷を隔てて反対側は、岩の露出した高い崖に、黄色い花々が咲いていた。資料では、こんなたえず雪崩が起きそうな急な斜面には高木の森林はできず、タニウツギやヒメヤシャブシの低木林が見られる、とある。さらに雪崩の土砂が堆積し、湿った場所では大型の草本からなる高茎草本群落となり、大きな岩の上などには、黄色いミヤママンネングサが咲く。また、岩場にはアオモリマンテマという小さな白い花が咲く。氷河時代に広く分布していた寒地系の植物が、その後の度重なる気温変化にも生き残り、独特に進化したものと考えられている。他の植物が容易に生育できない岩場は、同時に人や獣も近付けない環境であるため、絶滅をまぬがれたのだ。
 ヘリの前方で、深い谷はさらに入り組み、狭くなっているらしい。佐沢によれば、両岸に岩場が切り立つ峡谷を、この地方では暗門と呼ぶ。峡谷に沿ってそれ以上進むのは危険だった。
 眼前には、高く聳える崖が迫っていた。これまで見てきたような崖ではない、何か心を動かす予感を孕んでいそうな光景に、光一は胸慄えた。ヘリはゆっくりと上昇を始める。機内の騒音が大きくなった。光一は息をのんだ。素子の声を聴いた気がした。
 ……あなたは、一人で生きていく人。
 やがて険しい岩肌がすぐ目の前に迫ろうとした次の瞬間、機体はいきなり紺碧の大空へと抜けた。すべての音がふっと遠ざかったように感じられる。
 とてつもなく大きな空が現れていた。空しかないといってよいほど、そのあまりの大きさに、はじめ空しか見えなかったのが、やがてその下に広がる草原が、草原の向こうにブナの原生林がどこまでも広がっていた。ここ白神山地でもっとも大きなもの、それがツキノワグマでもブナでも滝でも森でもない、他ならぬこの大空であったのを、光一ははじめて知った。それだけがこの世界の唯一の真実のような気がした。これまでも、そしてこれからも未来永劫、何もない、青一色の虚空。そこには巨大な商業ビルが建つこともなければ、そんな建造物が残忍な殺意によって倒壊することもない。虚空は、ただひたすら虚空でしかなかった。そして遠くへ行くほど森の連なりは薄れ、ほとんど見えなくなり、森はじかに空と接しているようだった。
 光一は直感した。
 ――ここだ!
 佐沢が話した、夜に宙が降って見えるという森は、この森に違いない。その感覚は、他郷者がはじめてその地を訪れたとき、あれが岩木山です、あれが岩手山ですと説明されなくても、なぜか、あれがそうに違いない、あれしかないと紛うことなく直感するのに近い。なぜならその風景は、それまでのどんな風景とも異質だからだ。
 老案内人が吶々と話し始めた。ガイドをしているというより、自身の言葉で記憶を辿る話しぶりだった。

 

 二十年ほど前、白神山地の麓の海で漁師をしていた佐沢は、海の様子が気になっていた。魚の数が減り、川の水かさも減っていた。
 そんなとき、山から一人の男が彼を訪ねてきた。白神の森を知り尽くした、加茂谷というマタギの長老。かつて白神には五十人を越すマタギたちが、熊や野兎を追い、山菜を採って生活していた。
 加茂谷は言った。
 「力をかしてくれないか」
 昭和五十七年、秋田県青森県、四つの町村、林野庁は、三十億もの巨大な計画を打ち立てていた。白神山地の原生林を突っ切り、秋田の八森町から青森の西目屋村まで貫く道路を作る。規模は全長三十キロ、幅四メートル。さらにブナ林を伐採し、売却益を得ようという計画だった。
 秋田青森両県の自然保護団体が相次いで抗議行動に出た。彼らはそれぞれの県に林道建設着工、建設中止を訴える要望書を提出した。しかしその数ヵ月後、工事は着工されてしまう。
 まもなくして秋田県が、白神山地の環境調査結果を発表した。そこには、白神山地に保護すべき動植物はなく、工事に支障はない、と記されていた。白神山地の林道建設はブナの原生林まで迫り、ついに原生林入口に達した。麓では伐採が進んでいた。
 加茂谷は言った。
 「ブナが次々に切られている。山殺せば、獣も人もだめになる」
 漁師をしていた佐沢も応えた。
 「漁をするときには、森を見ろと、年寄りから言われてきた。緑豊かな森の下流にしか魚は棲めない」
 佐沢は加茂谷に連れられて、白神山地に登った。道なき道のけもの道が延々と続き、まだ四十代だった佐沢は七十歳近い加茂谷について行けずに、息を切らして何度も立ち止まった。
 ただひたすら無心で登り続け、どれくらいの時間が経っていたのか、ふと加茂谷が立ち止まると、振り返って言った。「ここが、山の神が宿る森だ」。
 それからしばらくたったある日、元気だった加茂谷が、ガンで倒れた。
 佐沢は仕事を休み、加茂谷にかわって住民集会に出かけ、吶々と口説き、反対署名を集め始めた。森の麓では伐採がさらに進んで、彼らの声を聞くものはいなかった。佐沢は家を長くあけては、たまに帰り、自宅で仲間たちと深夜まで打合せをするという生活を送るようになった。反対署名を親戚からやめさせるように言われていた妻からは泣かれた。それでも佐沢は集会へ出かけ、仲間たちとともに夜明けから深夜まで、罵声を浴びながら頭を下げ続けた。
 まもなく、加茂谷は静かに息を引き取った。そして、まるでその命と引きかえのように、白神山地の林道工事が中止となった。

 

 いつしかヘリは標高988メートルの真瀬岳の山頂を通過するところだった。はるか前方には、白神岳の向こう、山々の間から白神の山地帯よりもさらに大きい、どこまでも青い水のきらめきと、彼方には秋田県男鹿半島の島影まで見えた。
光一が佐沢に言った。
 ――先日、川歩きに連れて行ってもらったとき、ブナ林からの水が滲み出て、その水が沢に集まってくるのを実感しました。ブナの森の滋養豊かな養分を含んだ水が川の水となって耕地を潤し、そこに暮らす人々の生活に結びついている。やがて川は平野を貫き、沿岸に運ばれ、魚の餌となる植物プランクトンを大量に増殖し、日本海へと流れていく。
 佐沢は何か言いかけてから、どこか諭すように言った。
 ――他郷の人はそう言うのですよ。でも、白神の水が滔々と日本海に注いでいるなんて、とんでもない。昔はね、そうでしたよ。あるときまでは。
 その言葉で、それまで光一には白神岳の彼方に、お天道様に照らされてただ青々とのんきに存在していただけの巨大な水の堆積が、かけがえのないものとの命の繋がりを断ち切られて、唯無言の裡に広がる悲しみの本質のように見えだした。

 ヘリは白神山地の山地帯を抜けつつあった。遠く前方に望まれる広大な平野は、秋田県能代市だ。
 光一の訳した案内人の話に、ミシェルがゆっくりと、考えをまとめながらといったふうに口を開いた。それは自らの考えを辿る手掛かりを一つひとつ手繰り寄せるような物言いだった。
 ――私は、いま空から撮影している映像に、日本人の女性の歌を重ねたいと、以前の日本滞在のときから考えていました。私は探し求めました。古くから東北地方に残っていて、これまで録音された膨大な数の民謡のライブラリーを渉猟し、手に入る音源を可能な限り集めては、かたっぱしから聞いていったのです。民謡はどれも魅力にあふれていました。どの歌にも、厳しい生活や労働の中で、苦しみや悲しみを紛らわそうとする素朴さが織り込まれていた。その中で、とくに私が惹きつけられた歌があった。『秋田船方節』という歌です。
 佐沢が、少し頷いた。
 ――そして、一人の名も知れぬ日本人女性歌手の悩ましい声の響きが、耳に残って離れなかった。誰が歌っていたのかわかりませんが、日本の民謡を、まるでケルト音楽でも奏でるように歌っていた。私の中で、ウェールズに古くから伝わる「聖なる森の神話」であるケルト神話が、その女性が歌う海の唄に、なぜか繋がっていた。海が、かつてその胎内の奥底に抱いていた森を呼んでいるかのように。まるで彼女は、僕のために歌っているかに思われた。彼女は、僕のシラカミへの旅の案内役をつとめているようだった。
 光一が佐沢に訊いた。
 ――「秋田船方節」を知っていますか?
 ――海で働く女船頭が、厳しい労働の中で口ずさんだ唄です。
 ――女の人が船頭を?
 そう訊いた光一に、佐沢は頷いた。
 ――フランス人の私にはその日本の「海の歌」が、ヨーロッパに古くから伝わる「聖なる森の歌」にも聞こえた。その理由を知るために、私はこれから、あのとき聴いた歌手を探しに行くところです。
 光一の通訳に、佐沢が言った。
 ――秋田の男鹿に、船川というところがあります。「秋田船方節」の発祥の地で、そこの民宿に井川って婆さんがいるんだども、その人が昔、女船頭をしていたから、何か訊いてみたらいい。まだ、生きているかどうかわからないけどね。
 光一は訊ねた。
 ――いくつくらいの方ですか?
 ――たぶん、生きてたら100歳くらい。
 老案内人の表情は、あくまでも静かだった。
 ――また、白神をたずねて来てください。