第一話 3

 藤木がミサキからの手紙で、秋田駅1番ホームで彼女を探していた自分が、ほんとうは彼女に見られていたと知った夜、藤木はすぐには彼女に連絡をとろうとしなかった。二日目の晩を待って、大学の研究室の引出しから、彼女からの最初の手紙を取り出した。ビニールの封書に、ミサキの実家の電話番号が記されていた。
 ミサキの家に響いているだろう呼出音が一回、二回、と続いた。三回目、そして4回目のコールが聞こえる直前、向こう側の受話器が上がった。ややぎこちない若い女の声が聞こえ、藤木に三週間ぶりくらいになるミサキの顔のイメージがふたたび結ばれた。一言、二言、言葉を交わすたびに、しだいに藤木に彼女の全体像がはっきり思い返されていった。
 ミサキは週二回、民謡のレッスンに通い、それ以外の日にも本格的なボイストレーニングを受けていた。幼い頃から、秋田民謡の歌い手でもあった祖母から歌唱の手ほどきを受け、コンクールにも幾度か出場し、少なからず優勝もしているようだった。ミサキは、歌手になりたいと藤木にうちあけた。
 ――藤木さんの願いは、蝶の研究?
 ――蝶というより、生物そのものの研究。生物って、生命って何なのか、ずっと考えていくこと。そのためには、自然に生きる動植物だけでなく、仮想の生命なども研究の対象にしてね。もしかしたら、秋田市から白神山地の麓の町に引っ越すかもしれない。
 ――……。そうなんですか。いい研究ができるといいですね。
 この頃、藤木には大学側から、前年に環境庁から自然環境保全地域に指定された白神山地へ赴き、生態系の調査をしてみないかという話がすでにあった。
 互いにまた連絡する約束をして、藤木は受話器を置いた。

 ミサキは、ときに病院の公衆電話からも、藤木の講義の合間に連絡してきた。入院している祖母のこと、祖母と見るTVのお笑い番組のネタなどをとめどなく話した。さらにはカトリックの女子高での日々、キリスト教に感じる違和感、そして話の主題はいつもきまって、いくつもの次元をワープするように存在とか、死といったものに飛躍する。
 ――先生? 生きるって何ですか? 生って、生命って、何なんですか?
 ――君は哲学者みたいだ。もっとも、列車通学で毎日往復二時間も車窓から風景を眺めてたら、無理もない。
 ――朝の列車では寝てますから。二度寝です。帰りの列車では……、窓を見てます。
 藤木はかえって安心した。
 ――ほうら。
 ――いえ、そうじゃなくて、車窓に映る自分を見ているんです。そうしてずっと目を合わせていると、吸い込まれそうになって、ちょっと怖くなる。そんな経験、藤木さん、ありませんか?

 たがいに出した手紙の返事は、しだいに疎遠になりがちになり、二週間ほど過ぎた頃、久しぶりに届いたミサキからの手紙はかつてのレターセットではなく、ただの白い細長い事務用封筒だった。開封すると、学校で使うたくさん穴の開いたルーズリーフを普通に折り畳んだ手紙が出て来た。

 藤木さん

 お返事遅くなってすみません。今、倫理の時間で授業を聞きながら書いているので字が少し雑で、文面もかなりおかしいかもしれませんが許して下さい。
 この前の電話で、藤木さんは私が一生懸命だと言ってくれましたが、それは違うと思います。私はかたよった人間なのです。つまり一つのことに力を入れると、他の物がおろそかになるのです。例えば音楽が好例だと思う。学校では音楽に全力を注ぐけど他の面ではもう全然力を入れてません。今すごく自分のことがいやです。自分がかたよった人間なんだとなくとなくわかっていたのですが認めたくはなかった。でもこのごろいろんな人に会ったり、いろんなとこに行ったりすることでいやがおうでもそれを感じました。私はすごく心配です。無理を言ってすみませんが、藤木さんの話をいろいろ聞かせて下さい。もうそろそろ授業も終わりそうなので、この辺で終わらせていただきます。私事ばかり書いてすみませんでした。体に気をつけて下さいね。秋田の冬は寒いので……。

FROM ミサキ

 ミサキの書く端整な文字は、やや雑に書かれたこんな手紙でも書体の美しさを失っていなかった。文脈を辿ると、彼女のこの二週間の空白が理解できる気がした。秋田の曇った冬空から、女子高の校舎のガラス窓越しに、整然とした授業中のクラスが見えるようだった。制服姿の学生と学生の中に、「前髪をほんの少したらして残りは後ろの方に持っていった」ミサキが、やや首を傾けてルーズリーフにペンを走らせている。教師は彼女が一心に講義ノートをとっていると疑わないだろう。しかしそれは、彼女よりも十五歳も年上の、一人の生物学者へ宛ててしたためられた手紙なのである。
 こんな手紙にはすぐに返事を書かないほうがよかろうと、手紙を読み終えて藤木は、それからの二、三日を普段どおり早朝から深夜まで仕事だけに費やした。四日目の夜になって、研究室の電話が鳴った。受話器の向こうから、吹雪の轟音が聞こえてきた。
 青森方面へ向かう奥羽本線との分岐点、追分駅の公衆電話からかけてきたというミサキの声は、うわずって音声が割れてしまうほど大きく響いてきた。言葉のその切れ端に、風音が這入り込むため、意図して声高に喋っていたのかもしれないが、話の内容もどこかすっとんきょうで、その日の豪雪で軽い躁状態になっているらしかった。先日の手紙から、彼女が落ち込んでいるものとばかり思っていた藤木の想像は、壮快なほど見事に裏切られた。
 ――ああ、寒い! 鼻水が出る。
 回線の向こうで強引に鼻水をすする音が聞こえる。
 ――そんなところにいないで、早く家に帰ったらいいのに……。
 ――あのね、この近くで私が小さいとき殺人事件があって、幽霊が出るんですよ。
 結局、ミサキは家へ帰ってからまた9時までに連絡すると言い、電話を切った。
 夜9時を回り、仕事を終えて、そろそろ帰ろうとしていた藤木は、ミサキからの電話がないのに気付いた。
 しばらくぶりに彼女の自宅に電話を入れてみる。呼出音が響いた。
 電話に出たのはしわがれ声の、訛のある年配の男だった。どうやら漁師をしているというミサキの父らしい。彼女を頼むと、大声でミサキの名を呼ぶ声が響いた。
 ――ミサキ! 電話だ!
 受話器の向こう、板の間を踏んでくる足音が近付いてきた。電話口で、ぶっきらぼうな父と年頃の娘とのやりとりが聞こえる。それからいつものミサキの声が聞こえてきた。
 ――あっ! 藤木さん?
 父親が傍にいたのか、その夜の電話はどこかぎこちないものになった。話は早めに終わった。

 数日して、ミサキからベージュ色のサボテンのイラストの封書が届いた。

 藤木さん

 この前は電話であまりお話できなくて残念でした。あの場に父がいなかったらよかったのですが……。だからできるだけ誰からかかってきたのかを悟られないように「うん」とか「はい」ですませようと思ったのです。まあ父が電話をとった時点でもうほとんど終わっていたようなものですが。あのあと父にいやみくさく「つきあうのはまだ早い」とか「オレは二〇を過ぎるまで異性とつきあったりはしなかった」などといやみの連発! 私は一生懸命本当の事を言おうと思ったのですが、言えば言うほど自分の首を絞めそうなのでやめました。私はどうしようもなくただ苦笑しながらワカメを食べて、気がついたら入れもの半分くらいをたいらげてしまっていました。つまるところ父が制約できる範囲といっても夜にかかってくる電話に私を出さないようにするのがおちだろうと思ってますので別に恐くも何ともありません。日曜には電車に乗って大学に着いてしまえばもうこっちのものなんですから。近いうちに、またそちらにうかがってもよろしいでしょうか? 連絡待ってます。それから多分、いやきっとこれから夜遅く電話かけるのももらうのも無理だと思います。こちらから父の目を盗んで連絡します。
 それではまた……。

                                  ミサキより

PS

 最近、父に用があってくる人が多くなり、父が居間にいる時間も多くなっているようです。そして私もおかげで居間では勉強できなくなっています。しかもその客が1時頃までいるのには怒りを忘れてあきれています。お父さんのバカ!

 秋田駅一階の北側の端に『ふるさと』という、曲げわっぱの専門店があった。その晩、藤木と古内はその細長い小さな店に入った。食欲をそそる蒸籠の芳香が漂ってきた。
 酒を酌み交わしながら、藤木は白神山地について話した。ユネスコ世界自然遺産を選定する専門家からなる調査団が近々来日し、前年に環境庁から自然環境保全地域に指定された白神山地を、視察する予定があった。かりに白神が世界自然遺産地域の指定を受ければ、日本だけではなく世界が認める貴重な遺産として、人類の手で永久に保護保存される。
 美味い曲げわっぱに酒が進むにつれ、二人の中年の話題はしだいに俗っぽさをおびてくる。
――そういえば藤木先生。あの女子高生、かわいかったですよね。
――誰ですか。
藤木はわざとらしくとぼけてみせた。
 ――あの、ほら、大雪の日に。
 ――……、ああ。
 ――彼女、うちの大学の高梨大介と付き合っているようです。
 まあそんなことだろうと思いながら、藤木は冷静でいられる自分に満足した。彼は古内の話を聞きながら、ミサキが自分には決して見せない生態を、神の目で観察するかのように覗き見ようとしていたのかもしれない。
 ――高梨と同じ学生寮に住む女子の話です。例の女子高生が高梨の部屋へ消えてしばらくすると……、一晩中、その……、若い連中が気になるような物音が聞こえてくるんだとか……。
 古内と別れてから、藤木は大学の部屋へ戻った。そのとき隣の職員から、その日の夕方ずっと藤木のドアの前で、制服姿の女の子が待っていたと告げられた。藤木はその夜、ミサキから時間になったら電話してくれと言われていたのを憶いだした。
 彼女の自宅へ電話をかけてみる。一回の呼出音でミサキが出た。待っていたようだった。
 ――大学に来るのが今日になると知らせてくれればよかったのに……。
 ――え、先生を驚かせたかったから。
 ――電話はどうしたの。お父さんに知られないの。
 ――平気、平気。
 聞くとミサキは今日、放課後に秋田市の電気店へ立ち寄り、一番安い電話機を購入した。それを見せようと藤木の研究室を訪ねたが留守で、そのまま待っていた。いつまで経っても戻らないから、家へ帰った。
 ミサキは父が風呂へ入ったのを見計らって、居間の電話機を壁のモジュラージャックから外し、外した電話線を、買ったばかりの電話機へ繋ぎ、それを自分の部屋まで引っ張って話していた。ただ不便な点は、回線は一つに変わりなく、ミサキが指定した時間きっかりにこちらから電話をかけないと、家族にかかってきた他からの電話などに、ミサキが自分の部屋で出てしまう。
 藤木はミサキに、居間から彼女の部屋へ見慣れないコードが延びていたら、家族が不審がるのではないかと言うと、ミサキは、夜なら父は酔っ払っているし、おまけに機械音痴だから気付かないだろうとあっけらかんと答えた。藤木は笑い、ミサキも笑っていた。

 三月になると、藤木は大学の春休を利用して市内のアパートで論文の執筆やら講義の準備に過ごす時間が多くなった。ミサキは長崎に修学旅行に出かけ、旅先から藤木に「大浦天主堂」の絵葉書を送っていたのを、用事で大学へ立ち寄ったときに知った。写真は、正面にキリストの肖像のステンドグラスがある小さな教会の祭壇だった。

 藤木さんへ

 さて、修学旅行中に旅先から藤木さんに葉書を出そうと思い、ポストカードを買ったのはよかったのですが、よく考えてみれば住所は春休みに入ってしまっている大学の方しか知らなかったので、大学へ出しました。旅行はとても楽しかったです。またお手紙書きますね。