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第二話 5

 宙が降るようだった。
 夜空にひとすじの宇宙塵が燃えあがり、黒々とした山並みのかなたへ流れた。冷たい外気に吐息がたちのぼり、天上の星雲へと消えいる。
 ――今年の十一月、観測史上最大の流星群がやってくるとニュースでやっていた。そんな夜空を、かつて白神山地で見たという人を、僕は知っている。
 光一は携帯電話の待受画面を開いて言った。
 ――十一月十七日、白神山地午前零時。
 かつて白神に魅せられた光一は、何度もその地を訪れるなかで、「山の神が宿る森」を遠望できるもっとも近い場所に、あまり知られていない宿泊場所を見つけるという僥倖に恵まれていた。そこからミサキと一緒にダウンジャケットを着て屋外へ出た。
 樹齢三百年から四百年ほどのブナの老大木が漆黒のシルエットを描く原生林のかなたに、満天の星宿が広がっている。夜目に慣れるほど、確認できる恒星の数は増え続け、ついには未踏の惑星にたたずんでいると錯覚するほどの銀河を前にしていた。空を覆う夜の帳には大小無数の穴が穿たれ、なるほど天蓋の向こう側の、天界の光りがこちらに漏れてきているかのようだ。
 恒星の光りがまた一つ、大きくなり、向こう側の光りがこちら側を覗き込んだかに見えたとき、星はそのまま流れて、永続痕とよばれる尾を曳く残像を描いた。
 流星はけっして「またたく間もなく」というふうには流れなかった。夜の中空を堂々と、ゆっくりまっすぐ、一本の線となって横切り、あるところで大きな円形に発光しつつ消滅する一連の動きを幾度となく繰り返した。流星の誕生は時間も位置もバラバラ、不規則で、消え去るまでの時間も一様ではなかった。一つ流れては消え、すぐに今度は二つが別の場所に誕生しては、あるところで発光して消えた。
 北東の空には北斗七星が燦然と輝き、アンドロメダ大星雲が一つの小さな点となって、数百万光年のかなたから、数百万年前の光りを今この瞬間に放っているのが目認できた。
 見渡すかぎりの宙には星座群を背景に、おびただしい数の星々が歴々と明滅していた。北斗七星の上を、緑色に発光する流星が右上から左下へすうっと移動し、土星とオリオン座では左上から右下へ、双子座と木星の上では星は左から右へ真横に流れた。
 目がさらに慣れるにつれ、しばらく前から空全体を覆っていた緑色の光りの靄のようなものが、きわめて小さな流星の集まりであるのがわかる。大きいものは近くで流れ、小さいものは遥か遠くで流れていた。流星の一つが、北斗七星に重なって消滅する瞬間に、人の眼ほどの円になった。
 ――あの麓の森からは、どんな夜空が見えるのかな。
 ミサキのつぶやきに、光一の想念は夜空を飛ぶ鳥の目となり、かつてヘリの中から眺めた広大な草原へと向かっていく。草原を越え、その向こうにひかえる黒い森、山の神が宿る暗い森へと突入し、星明りに照らされた、かつて先人が辿ったという森の道を、暗い林床の落葉の堆積に足をとられることなく、森の奥、そのまた奥の、高い、さらなる高みへと飛んでいく。高所へ行くほどブナは葉をおおむね落とし、サザエの貝殻に似た色の幹を、その枝だけをあらわにして、宙へ向かって何かをつかみとろうとするように枝々を広げている。その樹間から見える宙はもはや、星が降っているのか、かつて海に沈んでいた列島から急激に隆起したときのように、白神の森が宇宙の果てへと飛び去っているのかわからないほどだ。原生林の底には黄砂のようなものがちらちらと降り出し、ブナの木肌に特有のニシンの鱗のように張り付く蒔絵螺鈿の衣を浮かび上がらせ、薄闇の森がしばし錦絵模様に彩られる。樹間から差し込む星々の光りは森のそこいらを照らし出し、いくつもの光の粒子が森林空間を初冬のホタルのように漂い流れ、先へ、その先へと飛んでいく光一の想念の行方をぼんやりしたうす明るい光明で示す。
 ――宙が、降るようだった。
 たったそれだけを、光一はミサキに言った。

 

 一度に連なって降る流星の数が、二個か三個くらいずつだったのが、すでに数えきれないほどになっていた。
 星が流れては消え、また流れるという間隔も、音楽が急に転調したかのように短くなった。
 星が消え去る寸前に、花火のように大小さまざまの光りの円が生まれ、消え去る前の流星の花火が、他の流星の花火を誘発するように連鎖して、おびただしい流星群はやがて空全体をまばゆく照らし出した。
 さらに消滅した流星は、その跡にいつまでも輝く細いヴェールのような流星痕を残した。
 星の流れる速度が、やがて交響楽の終結へ向かうように急激に速まった。
 夜空にかかるすべての星々が急激に発光し、大小さまざまの何十もの星々が、まったくの無音のなかで、光の礫となって、あらゆる方角へ拡散して降りはじめた。
 まるで地球という天体を巨大な軸として、星を映した宙そのものが回転木馬のように廻転しだしたかに見えた。
 流星の一つが死滅しようとする最期の瞬間、空全体を照らすほどの大きさの緑色の円に輝いた。
 少し前には人の眼ほどだった光りの円は、すでに握りこぶしくらいの大きさになっていた。
 円の光りは何層にもなっていて、光一は円の中心に、まさに目のようなものをかいま見た。
 そして巨大な円が消滅した後、消えた筈の星の破片だけが尾を曳きながらそのまま分裂して流れて、宙のカンバスに二つの流星痕を描いた。
 麓の黒いブナの森に、天体の饗宴が醸す光りがちらちらと、いつまでも躍っていた。