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第一話 1

 列車の窓が世界の雑多なものを映しては過ぎ去っていった。闇のなかにときおりうっすらと浮かぶ白い山脈の翳、線路沿いに積もる雪の壁、中年の男の自分の横顔、通路を隔てた反対側のボックス席で肩を寄せ合う制服のカップル。
 窓が曇ってくると、藤木はいちいち手で窓を拭いた。特急とはいえ隙間風の入る旧い車両がガタン、ガタンガタンガタンと独特のリズムで揺れるにつれ、車窓のスクリーンに、いつしか通路側で口を開いて眠っている女子の、制服の濃紺のスカートがはだけて、色白の脚がむき出しになっているのが映っている。
 彼女と身を寄せ合うブレザーを着た男子が、おそらく最近よく見ているものを、違う二つの穴から中年の自分が見ている、そんなことを夢想するうちに、列車の振動が激しくなった。駅が近いために線路を切り替えたのか、車体は大きく揺れて、濃紺のスカートは脚の付根のところまでめくれあがった。そのとき藤木は、彼女の透き通るほど白い肌に、青黒いアザのような、黒アゲハ蝶の刺青に似たものを見た気がした。
 はっとして曇りかけた窓を拭く。すると窓に映っていた夜の世界が反転し、蛍光灯の白々とした駅のホームが現れた。列車はしだいに減速し、「秋田駅」の表示板を映してながらゆっくりと停車した。
 乗客たちは列車から降りる準備を始め、目を覚ました制服の女子はスカートの乱れをただちに直して、二人で何事もなかったように手をとり乗降口へと向かった。

 

 藤木が列車から降りると、肌色と赤のツートンカラーの車両の乗降口、雪まみれの錆びかけた鉄板に赤字で「たざわ」と列車の名前が標されていた。駅のホームからは、振る雪で灰色になった夜空を駅前のネオンサインが照らしているのが見えた。
 一階改札で駅員に切符を渡す。目の前に人々がいきかう駅の二階まで吹き抜けのエントランスホールが現れた。ドーム状になっているため雑踏の音がこもって反響している。
 二階から駅のホールを見下ろせるステーションデパートのバルコニーから、同僚の古内が手を上げた。藤木は左手の切符販売機から列をつくる人々をぬって、下に降りてきた古内と、駅前へ出た。
 藤木は駅舎を振り返り、時計の電光掲示板を探した。二階建ての駅舎に、降る雪を透かして事業所の看板が、手前の山一證券、秋田米、清酒会社、温泉旅館、フィルムメーカーの順に並んでいる。駅前の信号が青に変わり、とおりゃんせ、とおりゃんせ、のメロディが流れる。
 大雪で駅前は混雑し、これから大学へ戻る二人に、なかなかタクシーはつかまらなかった。やっと現れたタクシーに藤木が手を上げると、車は停車しきれずに、数メートルほど行ったところで止まった。車へ歩くと、ちょうど走り過ぎて止まった場所で同じタクシーに手を上げたらしい、やや背の高い女の子が、車へ歩きかけたところで藤木らの姿を認めて足を止めた。しきりに舞う大きな雪片が彼女の肩まである黒髪で溶けた。
 いく度か大学のキャンパスで目にした顔だった。少し肩幅が広いため、どこか両性的な印象もあった。濃いめの化粧が大人びた顔立ちを引き立てているが、若いだけが魅力の年頃で、まだ人生を知らぬまま人生の歌を歌わされる若い歌手みたいに、なにかまっさらの紙をおもわせた。
 古内と彼女が何やら言葉を交わし、行先が同じ大学とわかり、相乗りとなった。彼女は髪を耳にかけるようにして助手席に乗り込み、膝の上に茶色の革鞄と駅前のドーナツ屋の紙袋を載せ、傘を脇へ置いた。黒い上着の下は黒いワンピースらしく、ブーツを履く脚が長く、シートが窮屈そうに見える。タクシーはチェーンを巻いたタイヤを雪道にくいこませ、金属的な音を発しながら走り出した。車内にドーナツと彼女の香水の匂いが充満しだした。
 古内は助手席の彼女に話しかけた。
 ――あの、こんな夜に大学へ?
 車内では、二人の教員と女の子とでいくつかの他愛ない言葉が交わされた。彼女は大学の学生ではなく、市内のカトリック系女子高に通う十七歳であること。毎朝、日本海突端の男鹿半島から列車で一時間かけて通い、休日には、こうして大学の寮に住む高校の先輩を訪ねて来ること。
 やがてタクシーが止まり、藤木が清算を済ませた。三人で無言のまま雪を踏みしめて歩く。降りやまぬ雪が周囲の音を吸収し、静けさがかえって耳に大きく感じられた。
 大学前の派出所では検問をしていて、二人の警官に呼びとめられる。一人の巡査が、連れの女の子の顔を覗きこんだ。近くで文部省の大会が開かれ、右翼を警戒しているらしい。あまりにじろじろ見るので、藤木が言った。
 ――彼女が過激派みたいに見えますか?
 ――いやぁ、先生が危険なんです。
 警官は笑った。
 大学の敷地内に入ると、教育文化学部と工学資源学部、その関連施設の方角を記すプレートが見えてきた。藤木と古内が別れるときまで、彼女は一緒についてきた。
 ――じゃあ、藤木先生、私はここで……。
 雪の降る中庭に、藤木と彼女だけが取り残された。
 ――友だちに会いに行くんだね。
 彼女は、そう訊いた藤木の目から視線をそらさずに、まだ約束の時間がどうとかこうとか、そんなことを口にした。藤木は、自分が彼女の暇つぶしの相手に選ばれたのだと思った。
 藤木は教養棟へ歩き、緑色の非常灯に照らされたドアの前に立つと、ポケットをまさぐり鍵を取り出し、ドアを開けた。足元のコンクリートを蹴って靴の雪を払い、非常灯だけの暗い廊下へ入った。後ろから小さくコツコツとブーツの雪を落とす音がして、振り返ると彼女と目が合った。藤木はちらと周囲へ目をやった。
 ――誰もいない、でしょ?
 彼女はやや首を傾げて藤木を見た。ずいぶんと大胆な女子高生だな、と思いながら、藤木はその階の明かりだけをつけ、研究室へ向かって歩きだした。けっきょくどこまでもついて来るので、さすがに訝しく思ったものの、少しのあいだ女子高生の進路相談の相手にでもなることを思い付いた。真冬のオープンキャンパスではないが、この大学に少しでも関心を持ってもらえたらいい。
 ――寮に住んでいる女子高の先輩は、君にこの大学のことをよく話してるんだろうね。
 ――あ、ええ。
 藤木は研究室の前へ着くと、鍵を開け、部屋のライトをつけ、木の扉を開けた。
 ――どうぞ。
 彼女は藤木研究室へ、靴音を立てながら入った。そのとき藤木は彼女の横顔に、男の乱雑に散らかった部屋に女子が踏み込んだとき見せる、微かな嫌悪の波紋がさざ波立つのを見た。
 昆虫標本の木枠の夥しい山、論文の束、開いたまま積み重なった書物、衣類、機材のコード、土産物の包み、何かの請求書やダイレクトメールやティッシュペーパーの屑、……。
 すぐに藤木は澱んだ部屋の窓を開け、スチームのスイッチを全開に入れた。
 ――私、ミサキといいます。
 独特のイントネーションの発音だった。秋田なまりと若者言葉が中和され化学変化を起こしたような、外国語みたいな響きがあった。
 ――藤木です、よろしく。
 すでに部屋を片付けながら、藤木は言った。
 ミサキは藤木のすすめた接客用のアンティークソファに座った。
 ――紅茶しかないけど。
 藤木は電気ポットにミネラルウォーターを注ぎ、電源を入れた。イギリス土産のハロッズ・グリーンの缶をスプーンの柄でこじあけ、耐熱ガラスのティーポットに茶葉を数匙入れた。
 ミサキは黒い上着を脱いで、黒いワンピース姿になった。鞄をソファの傍に置き、両手で髪を耳にかけ、そのまま髪を後ろで束ねてみる仕草をしながら、部屋の中を観察している。
 湯が沸くまで、藤木は執務用の大きな机をはさんで肘掛椅子に腰を下ろし、ミサキと向かい合った。沈黙があった。
 ――フジキさん、ドーナツ食べませんか?
 ミサキは大事そうに抱えていた紙袋を開き、なにか嬉しそうに中を覗き込んでから、笑顔を藤木に向けた。そして紙ナフキンを持った細い長い指を袋の中に差し入れ、一つ摘み出すと、身を乗りだして包んだ紙ごと藤木に差し出した。
 藤木は手をのばしてドーナツを受け取った。藤木の指にミサキの冷たい指が触れ、やがて離れると彼女はソファーに戻って、紙袋から自分の食べる分を取り出して、旨そうに齧りだし、口元についた砂糖を指で舐め、藤木に笑いかけた。黒い髪と眉と、大きい黒目が落ち着いた調和をなしている。その目がふと横の壁に掛けられたポスターにとまる。
 高さ二メートル、幅一メートルほどの大きな灰色のポスターは、いくつもの眼球が連なったような絵だった。大小たくさんの円の中心に様々な目が描かれ、こちらを見つめている。目元のいくつかにはアルファベットが記されている。十八世紀イギリスのアマチュア天文学者、トーマス・ライトによって描かれた絵で、神の目を中心とする宇宙の無限性を表現しているらしかった。
 藤木は肘掛椅子から立って壁際へ歩き、茶葉を入れたティーポットへ熱湯をそそぎながら話した。
 ――古代のアジアでは、空の星々は天に開いた無数の穴で、そこから神々の国の光りが地上に差し込むと伝えられた。神々が天の扉を少し開いて地上を覗く時、穴からもれてくる光りが流れ星だと。だから星が流れた瞬間に願いごとをとなえれば、神にじかに想いが通じると。
 ――もし神様がいても、たぶん私なんて見てないんじゃないかな、って思います。きっとよそ見されてますよ。
 ミサキは小さく笑った。
 藤木はティーポットから、来客用のウェッジウッドのティーカップに紅茶をそそぐ。彼女はさらに言った。
 ――それに、もしそんな星空に願いごとをして、かなわなかったら、やっぱり神様はいないってことになるでしょ。
 ――おっと、カトリックの女子高生らしからぬコメントだ。
 藤木はミサキに紅茶の入ったティーカップを渡した。
 ――私、小さいときから、死んだら生まれ変わるって教えられたんです。そんな生まれ変わり、輪廻転生が無限に続いてきたから、この世で出会う命で、過去に出会っていない命はないって。
 ミサキはしばらくのあいだこちらに背を向けて立ち、紅茶を飲みながら蝶の標本に見入っていた。そうして見ると、藤木には彼女の動く細い肢体が、いろいろなものに敏感に反応する蝶の触覚のようで、長い睫毛がとまった翅のように揺れていた。また後ろから見え隠れする高い鼻の細長い鼻孔の息遣いから、黒いワンピース姿のミサキが、藤木には麻酔を嗅がせて眠らせたまま標本に釘付けしたヒメギフチョウの生まれ変わりの姿に見えだした。
 幼少に遊んだふるさとの裏山。まだ芽の堅い雑木林、小さな谷にそった踏み分け道と清楚なカタクリの紅紫色の花。雲が切れて、やわらかな陽が差し込んだ瞬間、目の前に舞い上がった黒と黄のだんだら模様の蝶。春の舞姫ヒメギフチョウ! 宙をやわらかに漂うその大きさは、メスに違いない。手にした捕虫網を握りしめ直すも、彼女の前では足が震え、なかなか踏みだせない。気ばかりあせり、捕虫網は二度、三度、虚しく空を切った。
 藤木はミサキに声を掛けられていたのに気付く。
 ――え?
 ――あ、また、ここへ来てもいいですか?
 ――ああ。いつでも来るといい。
 藤木はミサキを教養棟の外まで送った。
 雪は降り頻っていた。ミサキはやや上目遣いにして、
 ――それじゃ、おやすみなさい、先生。
 と言って背を向けた。傘を開いて雪の中へ歩きだすと、キャンパス中の常夜灯に照らされるなか、傘から骨組が一本飛び出しているのに、彼女は気付いていない様子だった。

 

 ――明け方近くだったろうか。雨のしずくが、研究室の窓の手摺を打っているのが聞こえる。しかし一月の秋田、大雪の晩に雪が雨に変わるなどありえない……。ふと、藤木は眠ってしまっていた研究室の机から顔を上げて、暗がりに見えた光景に愕然とした。
 窓からの薄明かりで、正面のアンティークの赤いソファーに、黒いキャミソールだけ着けて、細長い白い手足を放恣に投げ出して眠っているミサキがいた。右の肘掛に頭を載せ、大きめの耳をこちらへ向け、腕はビロード地のソファーに、長い脚は反対側の肘掛へと伸びている。こちら側に向けた左足を右足とは交叉するようにして、ソファーの肘掛に足のかかとを載せている。夜の雲のような黒い薄い下着から半月のようにこぼれそうな乳房や、脚の付根から歴々と現れ出そうな陰部の周囲には若い肌の光沢があった。動いているのは呼吸する彼女の腹と、ときおり夢に呼応したように動く足の指だった。
 やがて彼女の脚が伸び、低い呻きとともにこちら側へ寝返りをうちだした。そして閉じられていた瞼が、長い睫毛とともにゆっくり開かれたとき、ミサキの目は昏がりに青い原色の光りを放つ、原生林の蝶の翅のような強烈な色に輝いた。

 

 ……雨だれの音は、いつしか研究室の木の扉をたたくノックの音に変わっていた。ミサキの寝姿もソファーも一瞬にして消え去り、かわりにソファーに寝ていた藤木の寝ぼけ眼がとらえたのは、ミサキが壁際に立て掛けていった標本のアクリル板に映える朝の光りだった。
 ふたたびノックの音が、遠慮がちにした。ソファーから起き出た藤木がドアを開けると、廊下にはミサキが立っていた。先輩の部屋に泊めてもらい、家へ帰るから挨拶に来たという。彼女の少し濡れた髪からのシャンプーの香りが、藤木に仄かにとどいていた。