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第二話 4

 フランス、フランドル地方の空はぼんやりした曇天だった。少し前に到着した光一を、ミシェルは自宅から車で迎えに来ていた。市街の並木道を、石造りの古い建造物群を横目に、ミシェルは欧米向けに販売された日本車を慣れた様子で運転した。
 やがて緑ばかり目立つ郊外に出た。煉瓦造りの家々が緑の原っぱのそちこちに点在し、車道の横を白馬に乗った男が通り過ぎた。
 ミシェルの邸宅は緑の溢れる広大な敷地にあった。砂利を敷きつめた車寄せに車が止まると、ミシェルは「ウェルカム」と言った。犬が啼いていた。
 煉瓦造りの二階建ての玄関まで歩くと、ミシェルは馬舎でも開けるように頑丈そうな二重扉を開け、光一を中へ促した。
 内部は木材とレンガを組み合せた内装だった。二階の天窓から曇り空がのぞく階段を上ると、二階にはそれまで見てきたのどかな田園風景と異質の空間がひろがっていた。
 奥の壁には窓枠のない横長の明り取りが穿たれ、木々の緑を映しているが、部屋の内部には黒い重量感のある何台もの録音機材が、波打ちぎわの漂着物のように置かれ、窓ぎわには上下二段ずつのキーボードが設置され、天井近くには液晶TVのモニターが掛けられていた。機材のほとんどが、ピアノが進化したダイヤルだらけのキーボード類で、なにか戦闘的な施設を思わせた。光一はこれまで、こんな限られた空間でそれだけ多くの鍵盤を見たのは楽器屋でもなかった。
 部屋の中央に、窓に向き合うようにしてジャンボ旅客機のコクピットのような場所があった。ミシェルは、そこがコントロール・ルームというエリアで、レコーディング・エンジニアがミキシング・コンソールという大型の録音機材を操作して音を記録する場所なのだと教えてくれた。
 トレーニングジムほどのスペースには、防音ガラスの向こうに曲を伴奏するドラムセットと、歌手が声を吹き込むボーカル専用のブースがあった。風変わりな形の窓は、広い部屋の反対側の壁にも穿たれていて、そちらのスペースはマシーン・ルームで、ミキシング・コンソール用の電源ユニットやコンピューター、録音機器を動かすための別室になっているらしい。
 ミシェルはスタジオの説明をしながらレコーディングの準備に取り掛かっていた。キーボード上にある二台のパソコンの青い画面を交互に見つめている。曲に日本語の歌詞がついたのはほんの一週間前。ボーカルの収録は一週間後に予定されていた。

 

 秋田の川反にある「雲雀野」で館花が話したとおり、ミサキの居所は家族さえ知らなかった。光一とミシェルは、男鹿市役所に勤める華香というミサキの高校の先輩を探しあてた。彼女によると、ミサキは高校を卒業後、神奈川の川崎へ移り住んだ。しばらくレストランでアルバイトをしながら、歌のレッスンを続け、オーディションなども受け続けていたらしいが、いつからか連絡もなくなったという。
 それからのミサキについては、同級生のあいだでさまざまな噂話として伝えられていく。華香はミサキを探しだしてほしい思いからか、かなり詳らかに話してくれた。ミサキは上京後、ある芸能プロダクションと契約し、社長である男性に、歌手になるよりも、グラビアや写真集の仕事を積極的にこなしたほうがいい、それができたら歌手デビューさせてあげると言われた。
 最初は嫌々ながら下着や水着での撮影に応じていたが、やがて脱ぐように説得されたり、アダルトサイトなどの性的コンテンツへの出演を勧められた。ミサキは断ったが、詳細を伝えられずにサインだけ書かされた契約書には、会社の意向どおりに撮影に応じない場合、会社がミサキに多額の違約金を請求する旨が明記されていた。ミサキは会社の言いなりになるしかなかったと、友人の一人に泣きながら打ち明けたという。
 これまで絶滅寸前の先住民族の音源などまで探し出してきたミシェルにとって、日本で一人の歌手を捜し出すのは、それほど難しくはなかった。ほどなくして、以前ミシェルの日本版アルバム製作に関わったスタッフの一人から、ミサキが見つかったとの連絡があった。スタッフはミサキに、世界的なミュージシャンからのメッセージとして、レコーディングのため、ぜひフランスへ来てほしいというオファーを伝えた。
 ところが、ミサキはそのオファーをあっさり断った。上京して最初に契約をした芸能プロダクションに騙されたのが事実なら、無理もないことだろう、と光一は思った。日本でもかなり名の知れたミシェルからのオファーとはいえ、むしろ彼が著名なアーティストなら尚更、疑いと戸惑いを持つのは当然だろう。
 ミシェルにはすでに次の仕事の予定があり、レコーディングに残された日数は少なかった。ミサキに断られることも想定していたのか、ミシェルの信頼するスタッフが、別の優れた日本人歌手を探して、連れてくる手筈になっていた。そのためミシェルと、引き続き通訳を依頼された光一はフランスへ渡り、ミサキの代役をつとめる女性歌手を待つことになった。
 ところが、ここで青天の霹靂とも言うべき、誰も予想すらしていなかった出来事が起こる。フランスへの飛行機が飛び立つ直前になって、嶋宮ミサキ本人が搭乗したという情報が、スタジオにいるミシェルにもたらされたのである。

 いったい彼女に何が起こったのか、思い巡らしている余裕もないうちにミサキの到着の知らせが入り、スタジオの外で車のタイヤが砂利を噛む音に続いて、犬の吼える音がした。
 ミシェルを追うように木の階段をかけ降り、玄関から曇り空の外へ出ると、前庭に一台の銀色のライトバンが停まっていた。反対側のスライドドアが開く。ミシェルはどこか落ちつかない様子で、彼に続く光一を何度も振り返りながら、車の前を通ってドアの方へ近付いた。
 ライトバンの座席から、眼鏡をかけた黒髪の日本人女性が降り立った。光一には、彼女が話に聞いていた二十代後半の女性には見えなかった。その女性は、車から降りてもミシェルにちょっと合図を送っただけで、ふたたび座席の方へ向き直った。
 黒髪の女性に隠れるようにその後ろから、砂利の上に薄桃色のパンプスが降りた。裾長の白いスラックスのすらりとした脚が見え、上体を起こしたのは白いスーツを着た、栗色のショートヘアの華やかな顔立ちの女だった。光一は話に聞いていたミサキと、今しがた現れたばかりの女を頭のなかで結び付けようとするが、目の前の彼女のインパクトがつよく、うまくいかない。
 彼女はミシェルに「ボンジュール」と言って軽く会釈した。ミシェルは長身をひょっこりと屈めてにこやかに笑いかけ、名乗りながら握手の手を差し出した。
 ――私はミシェルです、ナイストゥーミートユー、ウェルカム。
 彼女はぎこちなく「ハイ」と挨拶し、握手を返した。その右手の薬指にはシルバーの指輪と、同じシルバーのネックレスとイヤリングを付けている。メイクは控えめで、ほんのりパールに輝く左の目元には、小さな黒子があった。光一には、彼女がやっと聞き取れる声で、ミシェルに「ミサキ」と名乗ったのが聴こえた。
 光一もミシェルに紹介され、ミサキに日本語で挨拶した。
 スタジオの玄関まで歩くと、ミシェルは大きな門扉を開け、彼女を招き入れ、二階への木の階段を上った。二階へ上がると、ミシェルはミサキにはるばるフランスまで来てくれた礼と、滞在中にミサキが使うゲストルームの場所や、早速リハーサルに入りたいという意思を光一に通訳させた。
 ――収録が終わるまで、ここに泊まっていいそうです。
 ミサキは眼鏡をかけた黒髪の女性スタッフと一階へ降りた。
 ミシェルと光一はやっとミサキと出会えた歓びを目で確かめあった。
 それにしても光一には、最初は断っていた彼女が、なぜここへ来ることになったかという疑念と、かつて聴いたことがないミサキの声への期待が募った。ミシェルが彼女の「秋田船方節」を聴いたとき、その日本の「海の歌」が、ヨーロッパに古くから伝わる「聖なる森の歌」にも思えたといったことが、自分にもありえるだろうか。光一は船川の港町でかつての女漁師が吶々と歌った「秋田船方節」を憶いだしていた。

 

 スタジオはレコーディングの準備で俄かに活気づいた。曲の伴奏者がドラムを打ち出し、いっせいに動き出した機材で室内が熱気をおびはじめる。その中央でミシェルがリズムに身をゆだねながら機器を操作し、背もたれの高い椅子に録音技師と光一が並んで座っていた。そのすぐ後ろのソファーではミサキが、すでに黒のスウェットシャツとオレンジの花柄のズボンに着替え、ピンクのファイルに綴じた楽譜を見ている。彼女は顎に手を添え、リハーサルで歌ったばかりの自分の声の録音を聴きながら、組んだ長い脚でナイキの黒革のシューズをブラブラさせ、自分の声に合うキイを探っていた。
 ミサキはほとんど練習する間もなくスタジオに入ったが、その歌声を少し聴いただけで素人のそれでないのは光一にもわかった。
 ミシェルがボリュームのダイヤルをひねって、録音したてのミサキの歌声をフェードアウトした。部屋が静かになる。ミシェルはミサキへ向き直って話し、光一が通訳する。
 ――高い方の声が、彼(ミシェル)が聴いていて苦しそうなんで、そこをコーラス扱いにして、二声でいくのはどうですか?
 ミサキの眼差しには静かな力づよさと、どこかしら空虚さも感じられた。世界的な音楽家の言葉に、日本の若き民謡歌手はこう応えた。
 ――いいところ(キイ)が見つかれば。……今は、ほんとに一回しか歌ってないから、きつそうだし、慣れてないっていうのはわかるんですけど……。
 ミシェルはジェスチュアを交えて応える。
 ――出るかもしれない?
 ――……出る、出るのは出るんです。
 ミサキの言葉には、民謡のもつ無限の可能性をほのめかす気迫があった。ミシェルは穏やかに応えた。
 ――はい。
 ミシェルとミサキのやりとりがしばらく続いた。音楽を理解するものどうしが、二人にしかわからないニュアンスを共有しようとしていた。
 ――そうじゃなくて、声の使い方をもっと自分の中に入れてくれば、いいように出てくると思うんですけど……。
 ――では、高い方でトライしてみる?
 ――全然、つらいとは思ってないんですけど、いいところ(キイ)が見つけられない ものだから……。 
 ミサキの付き添いの日本人スタッフも会話に割って入り、皆が同時に話し出した。スタジオにはフランス語、日本語、英語の三ヶ国語が乱れ飛んだ。
 ――OK、OK
 ミシェルが制止に入り、ミサキも笑顔を返した。
 ――まだ着いたばかりだ。今日はこのくらいにしよう。
 そして直後のミシェルの言葉に、光一は耳を疑い、もう一度訊きなおしてから通訳した。
 ――明日からはオフにして、気晴らしに旅行にでも出かけましょう、……でいいのかな。

 

 翌朝、ミシェル邸のダイニングルームにノーメイクで現れたミサキは、水色の半袖ワンピースを着て、右手首に金のブレスレットをしていた。前髪を下ろし、トーストの上にバターと目玉焼きをのせてかぶりつき、オレンジジュースで流し込んでいた。
 ミサキはレコーディング以外では、まったく無口だった。眼差しは静かで、どこか屈折しているようで、容易に人を近付けないところがあった。食後にくつろいだ姿勢で窓から庭を眺める彼女は、誰にもわずらわされず、ぼんやり独りで考えごとをしたり、だらしない格好で果物を頬張りながら本を読んだりするのを好みそうな、そんな女を光一に想起させた。
 ……君は、何を見ている?
 朝食後に旅行に出かけることになり、メイクをして部屋から出てきたときも、光一にはそのメイクも人に見せるためでなく、もっと別な理由によるものに感じられた。
 ハンドルを握るミシェルの隣に光一が乗り込み、後部座席のミサキを、光一はバックミラー越しに窺った。黒いキャミソールの上に同色のシースルーのブラウスをはおり、濃紺のデニムジーンズを穿き、何かの絵が象嵌された大きめのベルトバックルをつけ、銀の十字架のネックレスをぶら下げていた。

 

 数日後、車は街路に沿って走っていた。官庁建築、博物館など多くの公共建築が配置されている。
 ――今度は、僕が君たちを案内するよ。
 ミシェルはそう言って、光一とミサキに、その街が一八五八年から三十年間にわたって、旧市街を取り巻いていた市壁を取り除き、それによってできた跡地を環状道路(リンクシュトラーセ)として整備していった、と話した。
 ――わざわざガイドをしてくれるため旅行に?
 ミシェルの「ノー」はときに長めに、語尾を上げて発音される。
 ――そうじゃない。日本の民謡の心を知っている若い日本人女性が、ふつうの歌手でなければ、初めて訪れるヨーロッパの交差点で、彼女は変わらざるをえないだろう。
 やがて右側にせまった建物をミシェルは指して、あれが国立オペラ座だと言った。オペラ座を素通りしてしばらく行くと、左側に、市電の上を直角に張り巡らせた電線のかなた、円屋根と左右の翼楼をひときわ大きくそびやかした、威風堂々とした宮殿をおもわせるネオ・バロック様式の建築物が立ち現れた。
 ミシェルと光一、ミサキの三人は車を降りて、若者たちがローラーブレードを履いて走り過ぎるのを待って、歩いてその建物へ向かった。
 館内は絢爛豪華をきわめていた。階段を上がると、装飾された高い壁の円柱の上部、葉飾りの側に一対の男女がシンメトリックに配置され、退廃と官能をもってこちらを見下ろしているのは、光一も見たことがあるクリムトの絵画だった。
 吹き抜けになった大ホールへ出る。八角形の丸屋根を仰ぐと、八つの天窓と、そのさらに中心の八角形の窓から陽光が差しこみ、贅をつくした装飾という装飾を細部まで際立たせていた。完成まで二十年の歳月が費やされたという、ミシェルの解説が聞こえる。目を凝らすと、おのおのの天窓の縁には何人もの肖像画が、神のようにこちらを見下ろしている。彼らはその威信と財力をかけて、世界中から美術品の数々を収集した歴代の皇帝たちだった。
 三人はカーキ色の壁が落ち着いた趣をかもす広間に歩み出た。風俗画の連作が展示されている。農村の暮らしのありのままが描かれている、とミシェルは教えてくれた。秋の収穫後の村の結婚式。それらの絵を収集した皇帝は内向的な性格で、うつ病ぎみだったという。ほとんど城から出ることなく、閉ざされた宮廷に暮らす孤独な皇帝。……
 ――ひきこもりの皇帝か。
 ミシェルの言葉をミサキに通訳しながら、光一は独りごとのように彼女に言った。
 ――現実には見たこともないそんな絵の情景が、皇帝にとっては現実世界を覗き見る唯一の窓だったのかもしれないな。そういえばさっきの大ホールの吹き抜けの天窓から地上を見下ろしていた彼らの目も、どこか孤独だった。
 ある場所には王冠も展示されていた。一家の栄華を象徴する王冠には、ローマ法王から冠を授けられる皇帝の姿が彫金され、王権が神から与えられたのを意味するダイヤモンドが燦然と輝き、ワインレッドのルビーが王の英知を、冠の頂きを飾るブルーサファイアは、理想の王だけが行くことのできる天上世界を現していた。
 ――ミサキさん?
 夢からさめたように、ミサキは光一を見た。
 ――どうかしました。

 

 ――憶いだしたんだ。
 フランスへの帰り、ミサキは美術館で、高校の頃に知ったという神話を憶いだしていたことを打ち明けた。
 いにしえの昔、古代アジアでは宙の星々は天に開いた無数の穴で、そこから神々の国の光りが地上に差し込むと伝えられた。神々が天の扉を少し開いて地上を覗く時、穴からもれてくる光りが流星で、星が流れた瞬間に願いごとをとなえるのは、神にじかに想いが通じるから。
 ミサキはその神話を知ってから訪れた、秋田八幡平の夜の高原で、星々が天に開いた無数の穴と信じられるほどの夜空に、ある願いを託したが、かなわなかったという。
 ――私の願いをかなえられるのは、神でも誰でもない、私しかいない。
 そして彼女は歌手になるために上京する。
 ずっと光一はミサキにフランスへ来た理由を訊く機会をうかがっていたが、いま彼女がしてくれた話は、すべてを物語っているかに思えた。

 

 仏領フランドルに戻り、ミサキのレコーディングが大詰めを迎えた。
 ――頑張ろう。
 ミシェルはスタジオ中央からレコーディングブースにいるミサキに親指を突き出した。
 彼女はマイクの前に立ち、大きなヘッドフォンを手に取った。ミサキにとっては、見たこともない録音機材の使い方から説明しなくてはならない。ヘッドフォンを装着するだけでも時間がかかる。
 しかし伴奏が始まると、ミサキはリズムをとりながら、凄まじいほどの声量を出した。すると、その大きな声量に伴って初めて、歌の精が息を吹き返すように、その節々に彼女が長らく封印していた民謡の響きがよみがえり、推進力をもって歌の世界の地平をおし広げた。
 それでもほどなくして、歌の途中でまた声が出なくなり、自ら歌を止めた。ヘッドフォンを付けたり外したりしながら彼女は言った。
 ――高い。けど、いい場所(キイ)が見つからないんですよね。
 ――裏声の?
 光一はミシェルの言葉を通訳する。
 ――裏声に行けないんですよ。
 パソコンを前に、脚を組んでミサキのレコーディングを聴いていたミシェルが提案した。
 ――では、Eの高さでやってみよう。
 光一が通訳する。
 ――ミサキさん、ミシェルが、次もっとすごく低いの聴いてみたいっていうんで。
 ――……。出るのかな。
 ――Aメロきついかもしれないけど、ちょっとやってみてくれませんか?
 声を出しやすい高さが、なかなか見つからない。歌いながら、その途中で自分の声が合っているのかいないのか、ミサキは逐一ミシェルに確認する。伴奏だけが進行し、ふたたびミサキが歌おうとすると、今度は伴奏の方が急に止まって、ミサキの「あれ?」という声だけがその場に取り残される。彼女は神経質にヘッドフォンを付けなおす。
 ミシェルも彼女が最高のパフォーマンスを発揮できる声の高さを探り、英語で指示を出し続ける。
 ――もう少し高くしたほうがいいね。Fマイナーだ。
 そのときミサキの日本語がマイク越しに光一に聞こえた。
 ――最初にやったのが、一番ラクだったかもしれない。
 光一も日本語で確認する。
 ――Fマイナーですね?
 ――ミサキは、それがFなのかどうかわからないらしく、あいまいに頷いた。
 ふたたび、ミサキは歌に向かった。
 ミシェルはリズムをとりながら、手もとの楽譜とミサキの様子を交互に見つめていたが、途中で満足げに、しきりに頷いてみせた。光一にウィンクをして言った。
 ――よし。これで音域は決まりだ。
 ミサキがレコーディングブースからおそるおそる出てくる。光一がミシェルの言葉を伝える。
 ――いいんじゃない。
 ――もうちょっとがんばります。
 ミサキは慎ましく小声で応えた。あとは、彼女がただひたすら歌いこむだけだった。

 

 ボーカルのレコーディング当日になった。この二日間、ミサキは何度も歌いこんだ。ミシェルは、彼女がなるべく民謡を歌うときの状態に近付けるため、ヘッドフォンを付けなくても歌えるように、窓ぎわを背に彼女のために特設ブースを設置した。
 レコーディングは6時間に及んだ。
 窓外は暗闇になっていた。ミサキはフード付きのグレーの半袖シャツを着てスタジオ側を向き、ミシェルは自らコックピットの操縦士のように、大型の録音機材であるミキシング・コンソールを前にしてミサキと向かい合っていた。日本が世界に誇る伝承歌唱と、西洋のテクノロジーとのセッションを、誰しもかたずをのんで見守っていた。
 ミサキはミシェルの紡ぎだした音のリズムに同調し、体を自由に揺らし、その両手で音楽の精を愛撫するかのような身振りで必死に歌った。
 その体全体が声帯と化したように、彼女の顔から首筋にかけて血管と筋肉が隆起していた。
 光一の位置からは、ミシェルの椅子の高い背もたれと、彼の揺れる長い金髪と、横長の録音機材に明滅するグラフィックエコライザーの緑色の光りが、ミサキの声量に合わせて長短変化していくのが眺められた。
 そして曲は、これまでミサキの声が何度も止まってしまった箇所にさしかかった。
 リズムをとるミシェルの首がひときわ大きく揺れた。
 光一は、ミサキの言葉を憶いだしていた。
 ……私の願いをかなえられるのは、私しかいない。
 次の瞬間、ミサキの澄みきった裏声がスタジオを満たした。
 その声は、澄みながらも天性の技巧で震えるような強烈なビバーブがかかり、冴え渡った。
 ふと光一は、山間の谺のようなミサキの声に誘われて、清らかな沢へ、滝が何段にもなって流れ落ちていくような想念におそわれた。同時に、背筋があわ立つほどのトリハダにしびれた。そして光一は一人、白神の原生林のただなかに放り投げられる心地がした。

 

 音楽がフェイドアウトし、ミサキが俯きがちにマイクからゆっくり後ずさりして、上目で不安げにミシェルを見た。
 ミシェルの背中は小刻みに揺れていた。ミサキの顔が安心に崩れた笑みに変わった。ミシェルは揺れながらこちらを振り返ると、彼は拍手をしていた。
 スタジオにいた全員から、万感の拍手が沸き起こった。ミサキは笑っていた。ほんとうに、心の底から笑っているようだった。笑って、笑いながら、その口もとに手が添えられ、彼女の顔が歪んだ。笑い声は嗚咽に変わり、抑えこらえていたものが突然噴き出したように、その目からぽろぽろと涙が零れ落ちた。

 

 収録した音に、ミシェルが熟練した手さばきでミキシング・コンソールを操りながら、アレンジを加える。画家が最後にキャンバスにサインを記すように、音楽家はアレンジを加えることで、誰が聴いても自分の音だとわかる楽曲に仕上げる。
 ミサキはミシェルのすぐ後ろの椅子に座り、長い脚のあいだで手を組み、曲の仕上がりを見守っていた。長い睫毛の下の大きな黒目が、ゆっくりとスタジオ内を見ている。横顔には、長時間の録音を終えた安堵と疲労が、ほんのり汗ばんだ皮脂とともに漂っていた。その表情はこれまででもっとも落ち着いているように光一には映った。
 ――声に合わせて効果を足してみた。
 ミシェルが両手の指でダイヤルを回すしぐさをする。
 ――いくよ。
 ミサキの収録されたばかりの歌声がスタジオ中に流れた。彼女はぼんやりした虚ろな表情で、唇を歌詞に合わせて動かしていた。
 やがて自分の歌が終わると、ミサキも満足したようにソファーに深く身をしずめて、前歯を出して静かに笑んだ。ミシェルがミサキを振り返って、どう、いいでしょと確認するようにまた親指を立てた。ミサキはミシェルに小さな拍手を贈った。
 ミシェルは「メルシー」と言ってから、「サンキュー」と言い、また知っている日本語を言った。
 ――アリガトウ。