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第二話 3

 一〇年ほど前に建て替えられた秋田駅舎の二階改札から、象の鼻のようにのびる空中通路を、光一とミシェルは駅前広場へと歩いた。世界的なミュージシャンといると、いつもはほとんど街の空気と化している、通路のそちこちに座り込んで楽器をならす若者たちがなにげに意識される。みんながミシェルを彼と知ってか、アピールが始まる。ミシェルは世界共通のパフォーマンスに体でリズムをとってみせながら、彼らに笑顔で応じた。
 空中通路からデパート横のエスカレーターを降り、「アゴラ」という名の広場に出る。そのまま仲小路をまっすぐ西へと歩いていく。
 やがて市内を南北に流れる旭川につきあたる頃、宵闇の川面に石垣の上に軒を連ねた繁華街「川反」からの明かりが映えていた。
 光一はポケットから、船川の民宿の女将に手渡された「雲雀野」という店の名と場所が記されたメモを取り出した。ミシェルも光一に教えられた「ヒバリノ」という店名を何度も口ずさんでいた。 
 二人は旭川にかかる、川反への小さな橋を渡った。
 光一が川反を訪れるのは、大学のとき以来だった。以前よりも店の数が減り、活気もなくなっていた。見たこともない新しい店があったり、光一が仲間たちと通った店も外装を新しくしていた。
 「雲雀野」も例外ではなく、そこにあるという場所には看板もなく、店は閉まっていた。
 木の扉には、古びた手書きの地図が貼りっぱなしになっていて、移転したのか、そこへのルートに矢印が引かれている。繁華街から少し離れた場所らしい。
 さらに歩いて、やっと辿り着いた雑居ビルの一階、そこだという場所に「雲雀野」の看板は見つからなかった。地味で薄汚れた木片が吊るされていて、そこに「ブルーノ」という店名が記されている。
 ちょうど開店前の時間らしく、店の戸口は少しだけ開いている。誰もいない店内のテーブル席で仕事をしていたらしい初老の厳つい顔の男が、鼻にかけた眼鏡の上の丸い目を向けた。光一は声をかけてみる。
 ――すみません、このあたりで「雲雀野」という店を探しているんですが。
 ――「雲雀野」は、もうなくなったよ。
 初老の男の言葉を、光一はミシェルに通訳した。ミシェルは困惑の表情をうかべた。

 光一は民宿の女将に手渡されたメモを取り出して、店の名を確認した。店内にいた男もいつのまにか戸口に出てきて、そのメモを覗きながら言った。
 ――このメモ、誰が書いたの?
 ――船川で民宿をしている、井川さんという人です。
 光一を見る男の表情が変わった。
 ――館花といいます、「雲雀野」の元店主です。
 彼は礼をして、二人を店内に招いた。
 光一は自分とミシェルを紹介してから、勧められた席についた。
 ――実は僕たち、「秋田船方節」の歌い手を探してまして、館花さんなら御存知とうかがったものですから。
 光一は館花に二人でここに来た経緯を話し、彼に協力を求めた。館花はやや困惑したように言った。
 ――ごらんの通り、私はもう民謡とはあまり関わりがないもんで。
 薄暗い店内にはバーカウンターがあり、サックス奏者のポスターなどが貼られていて、ジャズバーのような印象があった。
 ――「雲雀野」やってた頃なら、ここにも才能ある民謡歌手がたくさん来てたけども、みんな今ではそれぞれの人生を歩んでいることですから。
 ――そうですか。
 それ以上、館花から話を訊きだせそうになかった。光一はミシェルに通訳し、ミシェルは明らかに落胆していた。
 ところがその後、口をついて出た光一の言葉に、館花は何も言わずに黙りこんでしまった。
 ――そういう人たちにとって、「雲雀野」は、今でも忘れられない場所になってますね。
 光一は、余計なことを言ってしまったと、他の言葉を探した。そしてそれを話すより早く、館花が言った。
 ――いないことはないんだけど、今どこにいるのかわからないんですよ。
 秋田船方節の歌手と聞いただけで、館花にとってそれが誰なのか、すでに答えは決まっていたように彼は話した。
 ――……。いつからか音沙汰がなくなって、それっきり。生きているのか、死んだのか。……
 光一は、消息不明だというその人物に、フシギな共感をおぼえた。いつからか音沙汰がなく、それっきり。生きているのか、死んだのか。それは、光一そのものだった。
 生きているのか、死んだのかという言葉に、光一は館花の相手への幾許かの苛立ちのようなものを読み取って、かえって訊きやすかった。
 ――誰ですか。
 ――……。
 館花は立って行って、店の奥から大きな箱を持って戻ってきた。「雲雀野」と記された箱を開けると、そこに当時の店に関わりのあるものがいろいろと入っているらしく、彼は古いチラシやら何かの切抜きを、一つ一つひっくり返し始めた。

 ふと、館花の手が新聞の切抜きを拾い上げた。古く黄ばんだ切抜きが光一に差し出された。
 「秋田さきがけ新報」という地元新聞の切り抜きの、かすかに残る印字の日付は十年前の1993年1月5日となっている。記事の写真には着物姿の二十歳前後の女の子が写っていた。
 ――コウイチ、訳してくれ。
 光一と頬がふれるくらいまでミシェルは近付いていた。
 新聞の切り抜きは長らく屋外にさらされていたせいか、印字が退色して読むのに苦労した。
 ――記事には、「民謡界に新旋風」という見出しがついている。民謡のコンクールで優勝した彼女を紹介してるんだ。彼女はこのコンクールで、秋田船方節を歌って優勝した。
 ――彼女がどんなふうに歌うのか、書かれていないか?
 光一は記事を読んだ。
 ――選考委員の一人が、こんなことを言ってる。「民謡をケルト風のバラードのように歌う、こんな歌唱はかつて聴いたことがない。ジャンルを越えた声の可能性には、計り知れないものがある」
 ミシェルは記憶の断片を繋ぎ合わせているかに見えた。その縁無眼鏡の横顔が何も見ていないのは明らかだった。またたきをするだけで、しばらく動かず、ときおり何か呟いていた。かつて彼が日本に滞在したとき、膨大な数の民謡の中に見つけた歌声を、その印象を、新聞の記事から掘り起こしているのが光一にもわかった。
 そしてミシェルは静かに頷いた、何度も頷きながら、同じ言葉を繰り返していた。
 ――彼女だ。彼女だ。
 光一は、ほとんど消えかけた新聞記事の印字から、かろうじて一人の歌手の名前を読み上げた。
 ――嶋宮……、ミサキ。