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第一話 5

 十二月になり、第十七回世界遺産委員会がコロンビアで開かれ、白神山地ユネスコ世界遺産条約の自然遺産リストに記載された。翌年の秋から、藤木は白神山地秋田県側にある藤里町の研究施設で働くことが決まった。
 ミサキは両親や担任から受験大学を決めるように迫られていたようだが、さほど興味のなさそうな美容や保母の専門学校の資料を取り寄せては藤木に見せて、結局自分はごまかせないと、歌手を志して上京することに決めたと話した。

 高校最後の夏、ミサキは慣れないハンドル捌きで母親から借りてきた四駆車を、秋田県岩手県にまたがる八幡平の山頂へ向かって走らせていた。彼女は夏休にすぐ運転免許をとると、藤木とのある目的のために二人だけの旅行を提案したのだった。
 出発の朝、ミサキは男鹿の実家から秋田市の藤木のアパートまで迎えに来た。途中スーパーに立ち寄って一緒に食材を買い求め、秋田県を東へ横切り、熊沢川ぞいの街道、国道三四一号線から山の中奥深く入り、峠を通って八幡平へ入った。
 ミサキは、彼女が望むと望まぬとにかかわらず、自らの居場所としていつの間にか存在しているこの混沌とした世界に、秩序あるしっかりした像を結ぼうと、悩みながら懸命になっているようだった。
 ――私ね、こう考えることがあるんだ。いつのまにか、自分が誰かのセッティングした人生って舞台に立たされて、とにかく何かを演じなきゃならないの。そこでパニックになって、何かしなきゃって思うんだけど、何もできなくて、客席から野次が飛んでくるのよ。
 ミサキの自己と世界は、ともすれば少しばかりの振動で平衡を失い、崩れそうだった。そんなとき、ミサキはそのよりどころを藤木や、民謡の師匠や、友人や、書物の中に欲した。
 彼女は運転しながら、夢中になって読んでいるという、アメリカの精神科医の著した本について、その輪廻転生の物語を話した。現代のアメリカ社会に生きる一人の女性が、医師の催眠療法に導かれ、過去何十世代にもわたる前世の記憶を蘇らせるというものだった。
 標高一六〇〇メートル前後の火山が嶺を並べ、あちこちから温泉が噴き出す険しい山道を上るにつれ、景色が灰色がかり、気温も下がり、霧が深くなっていく。霧の流れる下には、太古からのアオモリトドマツの樹海が黒々と広がり、この世ならぬ光景は、いにしえから営々と生きてきた、夥しい先祖の御霊が林立しているかのようだった。
 八幡平の山頂近くにさしかかった頃、車窓からの風景が一変した。それまで霧に包まれていた眼下の視界が急に開け、アオモリトドマツの樹海の中に、いきなり巨大な火山湖が、空の鏡面となって現出した。二人は同時に嘆声をあげ、互いに言葉を失っていた。
 ――へぇ、八幡沼っていうんだって、あの湖。藤木さん知ってた?
 ミサキは秋田と岩手の県境、見晴らしのいい展望台の傍らにあるログハウス風の小さな土産物屋で、観光ガイドを見ながら言った。
 八幡平の絵葉書や関連書が陳列され、藤木は山の四季や、白い毛で覆われたオコジョと呼ばれる小動物を撮った写真集にしばし目を奪われていると、ミサキがいない。
 階下への階段を下りてみる。そこは夏でも暖房のきいた部屋に通じていて、八幡平の自然を写真に切り取った小さなフォト・ギャラリーになっていた。中央に長テーブルがあり、そこでミサキが何かを書いている。何を書いているのか藤木が覗こうとすると、彼女は記帳用のノートを隠して、ログハウスを出るまで見せてはくれなかった。
 ――また一緒に来たときに見せてあげるよ。


 その晩、二人は八幡平の麓、松尾村のコテージに泊まった。ミサキは髪を頭のてっぺんで束ねて、漁師の実家から持ってきた大きなクーラーボックスから、イカやタコ、様々な種類の魚介類を取り出した。藤木も大きなフライパンと皿やワイングラスを準備し、手際よく米を研いだが、何でもやろうとすると、ミサキがやや不機嫌になったので、後は彼女に任せた。ミサキは袋から、途中のスーパーで買った数種類のスパイスを取り出した。
 まもなくして黄金色に輝くパエリアが出来上がり、ワインで乾杯をした。
 ――よかった。今度私が藤木さんのアパートに作りに行ってあげるね。
 食後にプラムをかじり、夜が更けるのを待った。
 ミサキはかねてから、藤木と初めて会った夜、研究室で彼から聞いた神話のような星空を探したいと話していた。
 いにしえの昔、古代のアジアでは宙の星々が天に開いた無数の穴で、そこから神々の国の光りが地上に差し込むと伝えられた。そして神々が天の扉を少し開いて地上を覗く時、穴からもれてくる光りが流星。だから、星が流れた瞬間に願いごとをとなえれば、神にじかに想いが通じる。
 ――君はそのとき、もし神がいても、自分なんて見てないか、よそ見してるんじゃないかって言ってた。そんな星空に願いごとして、かなわなかったら、神はいないことになるって。
 ミサキは、思いつめた口調で言った。
 ――もし神がいないなら、私の願いをかなえられるのは、私しかいないでしょ。

 

 夜の高原の冷気のなかに、ミサキは尻がやっと隠れるくらい短いジーンズのショートパンツから長い素足を出し、胸だけ覆った白いシャツの下にヘソを出して、ピンクのサンダルを持って外へ飛び出そうとしたので、藤木は何か着るように言った。
 ――はあーい、先生。
 コテージの外からは蝉の声が響いてくる。
 ミサキは白い花柄のワンピースを着け、半開きの背中を藤木に向けた。
 ――ねえ先生、背中のジッパー上げて。
 二人でコテージを出て、ミサキが運転してきた車に近付くと、彼女がリモコンで車の施錠を解いた。後部座席にあったやや大きめのケースを藤木が開けると、口径二十センチの天体望遠鏡の胴体が現れた。
 コテージは森の広大な敷地に点在していた。数分歩いたところに、周囲の黒い山々と夜空が一望できる芝の広場があった。少し前まで花火の人がいたのか、誰もいない広場に微かに火薬の残り香が漂っている。
 ミサキは芝の上でピンクのサンダルを脱ぎ、裸足になった。夜の昏がりにミサキの膝からかかとまでの細長いすねが艶やかにひらめいた。
 夜空は川底の砂金のように藤木に見えた。それを背景に、山々の翳が眺められた。真空という清流の加減で、その光りの粒がいまにも降ってきそうだった。そんななかで、ひときわ特徴のある、うずくまった牛をおもわせる広大な稜線を、果てしない銀河へ向かってそびやかし、そこだけ目を疑う合成写真のように忽然とあるのは岩手山だった。イーハトーブと呼ばれたこの東北の地にはまだ、かつての少年をあの無辺際の彼方にまで拉し去った、宙へ繋がる銀河ステーションを見出せるだろうか、と藤木は思った。
 ふと、ポケットの中の指が紙片をとらえる。しかしそれはほんとうの天上へさえ行ける切符ではなく、コテージの入場券でしかないのも藤木は知っている。
 ……もし見出せたとしても、それは自分ではない、他の誰かだろう。
 藤木は三脚を立て、宙へ向けて望遠鏡の太い筒を設置した。レンズを調整し、焦点を定める。
 漆黒のなかにぼんやりと、肌色にオレンジ色の縞模様のある惑星が映っていた。惑星の地表にはあざのように黒々とした像が現れている。あざのように見えるのはその前月の7月に、シューメーカー・レビー第9彗星といわれる二十個あまりの彗星の破片が、多数の隕石となって木星に次々に衝突したときの痕だ。
 ここへ来る道すがら、藤木からそんな宇宙の絶景の話を聞いていたミサキは、早く見せてとせがんで、宙へ向いた太い筒へ顔を近付けた。
 藤木は呟いた。
 ――もしこれが木星ではなくて地球に堕ちていたら。
 ――私たち、ここにいないね。
 昏がりのなか、ミサキは望遠鏡から顔を上げていた。地上の星のように小さく晃めいた瞳は藤木を見ている。
 天体の運行の軌跡がもたらした偶然によって、藤木が知ったミサキの唇は柔らかくてあたたかく、甘美で愛しい味がした。唇からプラムの匂いの吐息が漏れ、彼女の瞼が開くと、その目には星空が映っていた。
 瞬きをしたミサキの目に星が尾をひいた。ふれあったままの彼女の唇が何かつぶやいたと藤木に感じられたとき、彼女はすでに目を瞑っていた。