読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

第一話 4

 秋田の雪深い三月の終わりは、また北東北の長い冬の終わりでもある。四月には、新しい季節とともに前年までのすべてがリセットされる。最初の週などには三月とは対照的な陽気の日があったりして、道端の雪が踏み固められ泥まみれになったアイスバーンもいつしか溶け去り、乾いたアスファルトが現れる。朝は急速に早まり、陽光にかがやく朝露に濡れた樹木や草花は、春のどうしようもない自然の精気をその勃然とした莟みに込めはじめ、若葉の放つ野生の臭気は胸をついてむせるくらいだ。
 大学事務局には毎年、全国からの新入生が列をつくる。こみいった手続きを待つ中には、この陽気が雪国の四月かと驚く声もあったりする。若い顔はみな、春の新しさへの戸惑い、昂奮や憧憬といった互いに相容れぬ様々な感情を、キャンバスにうつろいゆく水彩の色調のように素直に表出している。彼らの若い視線と視線は、互いに複雑に交叉しながら、そうしていくつもの真新しい幻想のタペストリーを紡ぎあげていくのだった。
 ゴールデンウィークの前に、ミサキが藤木の研究室に連絡をしてきた。連休中に藤木のアパートに遊びに行ってもいいかという。
 いろいろな思惑に藤木はとらわれた。受話器の向こうでは、彼女が藤木と一緒に秋田市街の千秋公園に桜見に行きたいなどと言っているのが聞こえる。藤木ははっきり返事をするかわりに、五月の下旬に高校で中間試験があったのを憶いだして、花曇りの空を眺めて言った。
 ――連休が終わってからならいいよ。五月の二十日くらいならどう?
 ――……。私、二十日頃から中間試験が始まるんです。なんかうまくいきませんね。じゃあ、とにかく中間試験が終わったら、絶対会ってください。
 秋田では四月中旬に突然の寒さや、下旬は暑さが訪れたりしながら、また五月の連休後には急激な寒さが訪れる。藤木は秋田へ来たばかりの頃、この気温変化についていけずに、毎年この時期にきまって風邪をひいていた。風邪をひくとわかっていながら、何度も風邪をひいた。
 五月の秋田の空に、どこか生まれ故郷の空を見ると、藤木は秋田在住のロシア人から聞いたことがある。曇天の下、市内の街路樹はその鬱屈した緑の深さをだらだらした葉の成育とともに日毎に増していき、やや薄暗いような昼間にモノトーンの哀調を添えている。そんな市街から一〇分ほど車を走らせると、目の前にいきなり白い砂浜と緑の波打際の日本海が現れる。人一人いない下浜海岸の沖には、厚く重なりあった雲の層を通して、ときおり幾通りもの夕陽の斜光が、複雑にして神秘な光りの芸術を生み出している。秋田女の肌がロシア女のように白くて、きめがこまやかなのも、日本でもっとも曇り空が多くて、日照時間の少ない地域に生まれ育つせいであるのは、よく知られている。
 さて、ミサキとのことをどうしたものかと考えているうちに、彼女が藤木の研究室へ来るらしい土曜日の夕刻になった。とくに忙しくもなかったが、藤木はそのまま仕事を続けた。しかし心のどこかで、教養棟の廊下の彼方から、研究室に近づいてくる黒い影と靴音を待っている。
 約束の時間から二十分ほど過ぎた頃、何の前ぶれもなく木のドアがノックされた。靴音も気配もなく、その場にいきなり現れたかのようだ。藤木は返事をした。
 戸口に現れた彼女はたちまち笑顔になり、黒目が大きく揺れた。髪をアップにし、首から肩と腕の肌をすべて出して、唇と同じやや落ち着いた紅色の薄いシルクを身に着け、サンダルを履いている。冬に会ったときより髪や眉の色がやや茶色がかっていて、軽やかな印象だ。
 ――こんにちは、お久しぶりですね。
 ――そんなふうには思えないね。いつも話をしていたから……。
 膝上丈のシルク地には胸下から腰へかけて所々に植物の柄があしらわれ、静かに揺れている。近寄ると、左膝の少し上に小さなホクロが見えた。かなりの時間をかけて化粧をしたのだろう、薄いグレーのアイシャドーをのせた左目の端にも小さなホクロが見えたとき、柑橘系の香水の匂いも漂ってきた。

 

 日没後の秋田市の夕空の雲を、陽の名残りが鮮紅に染めていた。宵闇が辺りを包むまで、藤木はミサキに案内されて、薄昏の川端の路地をしばらく歩いた。ミサキの履いた華奢なサンダルが、寿司屋や料亭前の打ち水をした路面で音を立てる。
 どこをどう曲がって辿り着いたか、やがてミサキがここだと指した暗がりに、木の板を焼いた文字で「雲雀野」と記された店の看板が出ていた。
 ――ヒバリノっていうんですよ。
 ミサキに続いて木の扉を入ると、そこはこじんまりした居酒屋だった。ミサキは人懐っこそうな濁声の主人に常連のように迎えられ、すでに晩酌を始めていた数人の客にも、
 ――おっ、彼氏さん同伴ですな。
 などと声を掛けられた。
 カウンターに並んで腰かけ、ミサキは店の主人に藤木を紹介し、藤木には愛嬌のある丸い目を向ける厳つい顔の初老の主人を紹介した。
 ――この人、私の後援会長。
 ――?
 藤木は店主に会釈した。
 壁のいたるところに、民謡コンクールのポスターや、新聞の切抜き、新旧の歌い手の写真がいくつも貼られ、飾られていた。
 ――何になさいますか?
 秋田訛の主人が藤木に訊いた。
 藤木は水割りを注文した。ミサキはすでに細長いグラスに入った、オレンジ色のドリンクを口にしている。
 主人がカウンターから茶封筒を取り出して、ミサキに渡した。彼女が封筒を開くと、透明のビニールに入って現像された写真が出てきた。ステージ上でピンクの和服を着て歌う女性が写っている。ミサキは店主に礼を言い、何枚かの写真うつりが悪いと口にしたので、藤木は写真の女性がミサキだと知った。写真の女はミサキとは別人に見えた。ステージの背後には「全東北民謡コンクール」という文字も見えた。
 藤木はカウンターに、書店のポップ広告のようにクリップにとめて飾られていた新聞の切抜きに気付いた。「秋田さきがけ新報」という地元新聞の切り抜きで、ミサキが見ている写真と同じ彼女が新聞にも写っている。新聞の見出しは「民謡界に新旋風」と題して、先の全東北民謡コンクールでのミサキの優勝を取り上げていた。優勝を決めた曲、秋田船方節『三十五反の帆かけ船』を、選考委員をつとめた森山良子氏が絶賛していた。
 「民謡をケルト風のバラードのように歌う、こんな歌唱はかつて聞いたことがない……。ジャンルを越えた声の可能性には、計り知れないものがある」
 また別の写真では、彼女が勝利の盾を手にして、自信に満ちた笑みを浮かべている。写真の右下には今年一月の日付が記されている。
 ――歌っているときは、何を考えてるんだ?
 藤木がそう訊くなりコースターに水割りが置かれた。グラスを傾けて丸い氷をグラスに当てて音を立て、唇へ運ぶまでミサキは答えを探していた。
 ――うーん、客席一人一人眺めてたかな。
 彼女もオレンジ色のドリンク入りのグラスを傾けた。ビーズを飾ったマニキュアが可愛らしい。
 ――そんなことをしたら、余計に緊張しないのか?
 そう言った藤木に、後援会長が答えた。
 ――彼女ね、こう見えてもけっこう度胸が据わってるんだ。それに、この時歌った曲というのが、これまた難曲中の難曲といわれるもんでね。節回しがこう、なんというか……。
 ――人を捜していたんです。
 ミサキが言葉を差し挟んだ。
 ――コンクールは仙台でした。ちょうどその人も、お正月に仙台の実家へ戻っていて、チケットを渡していたんです。来ていたかどうか、気になって。
 いつか藤木は大学のカフェテリアで、ミサキが付き合っているという学生の高梨と同席したのを憶いだした。同じテーブルにいた学長が高梨に出身地を訊き、ランチタイムの騒音で彼の返答は聞こえなかったが、それを受けて学長が「そういえば僕の義理の妹も仙台だ」などと応えていた。
 ――結局、夜に高速バスで秋田に帰ってから、その人の部屋へ行ったら、急用ができたみたいで、来てなかったと知って、がっかりしましたよ。
 見ると写真の日付は1993年の1月4日になっている。大雪の夜、秋田駅前で藤木が最初にミサキに遭った日だ。その夜、彼女が大学の寮に住む女子高の輩を訪ねたと言っていたのを藤木は憶いだした。
 ミサキの横顔はタコのようにはげしく紅潮していた。目もうつろになっている。彼女の飲むオレンジ色のドリンクはカクテルか何かだろうと思うにつれ、藤木は若い女の嘘を暴いてみたくなった。
 ――来てなかったというのは、大学の寮にいる女子高の先輩とか。
 ――いえ、違います。どうしてですか。
 ミサキは少し驚いた顔をした。

 

 しばらくしてから、二人で「雲雀野」を後にした。
 ――二人で飲んだことは、ここだけの内緒にしておこう。
 ミサキの嬉しそうな顔に、藤木は我に返った。
 ……どこかで彼女を避けながら、こうして彼女と小さな秘密を共有しようとしている自分もいる。
 暗い迷路のような路地を引き返して、ミサキは藤木の知っている道まで案内した。路地をうつ彼女のサンダルの音はゆっくりし、気持ち良さそうに夜空を見上げてはため息をつきながら、ミサキはいつも自分の考えていることを思い付くまま話した。会ったときはさわやかな柑橘系だった香水の匂いが、やや扇情的なラストノートに変わっている。
 しばしの沈黙があった。
 ――藤木さんの部屋に行ってもいいですか?
 日の暮れた五月下旬の秋田市街から、緩い坂を上っていくと、やがて夜の光りを映した川面が見下ろせる太平川のほとりに出た。川岸の細い砂利道を、二人で並んで歩く。
 ときおり川面に魚が浮かんで、大きな波紋を描いた。川へ降りる斜面は叢になっていて、そこから虫のすだきが聞こえてくる。叢の向こうに黒い翳が見える。翳からは長い釣竿が宙へ掲げられ、水面に糸をたれている。
 太平川の上流から水面を滑るように一台の自転車が走って来た。川岸の小道をこちらへやってくる自転車の投影だった。ミサキの歩みは極端に遅くなった。小径で藤木はミサキの腕をとり、自転車に道を譲った。ミサキも藤木に体を寄せた。その体はかなり火照っていた。
 小さな石橋を渡り、書道教室の看板のある民家を通ると、隣接する牛舎に獣の気配があった。家々の間を曲がりくねった小道をいくと、生垣の向こうに朽ちた土蔵があり、壁が落ちた内部から、永い歴史をとどめた昏すぎる闇がこちらを覗いている。
 ふたたび市街の方へ少し歩くと、駅の東側の、所々に水田が残る地区の一劃に、大きな箱のような二階建ての、藤木の住むアパートが見えだした。

 

 藤木の部屋には中二階があり、天井が高かった。本は多くなかったが、原書の背表紙ばかりが並ぶ書棚を、ミサキがふらつきながら長時間見つめているのは、半分眠っているのか、他のことでも考えているのだろうと藤木が思ったとき、彼女はリビングのチェコ産の絨毯に長い脚を投げ出して座り込んだ。
 ――もう遅いから、泊まっていきなさい。
 ――いえ、帰ります。今日はすぐ帰るつもりだったから。
 ――遠慮しなくていい。
 ――……、はい。じゃあ、泊まります。
 ミサキは初めての男の部屋に泊まる前の一連のやりとりを、台本を省略してただ確認する女優のように済ますと、鞄から洗顔用具と着替えを取り出し、事務的な口調で「ちょっとだけ借ります」といってリビングから出ていった。
 すぐに白いシャツとジーンズ姿で戻ってきた。前髪だけ後ろへ持っていっている。半年前の雪の午後、駅のホームで藤木が知らずに彼女に見られていたとき、彼女はこんな感じだったかと、ちょっと覗き込むようにした。化粧を落とした彼女は顔をそらした。
 ――私、リビングに寝ますから。
 藤木が枕を貸そうとすると、ミサキは持ってきた自分のバックを枕にするから要らないと言った。藤木は中二階の寝室へ上がった。


……暗闇の中、藤木は階下からのミサキの声で目を覚ました。高い窓から差し込む月明かりに、白いシャツとジーンズの寝姿が見える。寝言のようだ。「シスター」という言葉が繰り返し聞こえるのは、カトリック系の女子高で誰かと対話をしている夢でも見ているのか、耳をそばだてるも、告白の内容までは聞き取れない。そのうち、藤木は再び眠りに落ちた。

 

 翌朝、藤木はミサキを起こさぬよう、静かに朝食の準備をした。郵便受けに何かが差し入れられる音は、休日にきまって遅れる老配達員の朝刊だ。
 キッチンで朝食を作りながら新聞に目を通す。つい先日、スイスの学者たちが地元の白神山地を訪れたという記事があった。学者たちは森を見てこうコメントしていた。これほど豊かなブナの原生林が存在し、貴重な生態系が保たれているのは、世界のどこを探しても、「シラカミ」以外にないだろう。

 ……十一年前の一九八二年七月、その森が地上から永久に消滅したあの夏、まだ二十代だった藤木が目にした光景が、いまでも頭から離れない。
 その森は、永いあいだ里の人から「山の神が宿る森」として崇められてきた。聖なる森、神々の懐に辿り着くには、長い距離を登攀し、滝登りを繰り返し、やがて水枯れして苔むした岩が目につく小沢を急登し、チシマザサの猛烈な密生地帯を藪漕ぎし、少しずつ研ぎ澄まされていく感覚を周囲へ向けたりといった、ひととおりの儀式を経なければならない。その旅は藤木に、自らが精子になって森の胎道を子宮へ向かいゆく想念を呼び起こした。
 ブナの林床でひとり目を覚ました藤木は、寝袋から身を起こすと、その辺から引き抜いた羊歯を敷きつめた、一夜限りの天然のベッドにいた。
 傍らではクマ除けに夜通し燃やした焚き火が燻っている。煙は一条の細い糸となり立ち上ぼり、聖堂のように高いブナの森の中空へ消えていた。ブナの枝先からは、紫色に染まりだした明け方の空が仰ぎ見られた。
 ブナの木立の高み、梢の上に、藤木は陽炎にも似たわずかな空気の揺らめきを見た。じっと目を凝らす。しているうちに、空の色からそのまま浮かび上がるように、あるいは空の破片のような独得の水色光沢を放つ小さな翅が、あわただしい弧を描いて現れた。
 それは翅一枚が親指の爪くらいほどの小さな蝶だった。蝶は、いつしか空中に現れていた別の、やや大きめの蝶に近づいた。昆虫では一般に、メスはオスより大きい。
 「彼」は漂いながら前肢で、羽ばたく「彼女」の翅に触れた。そうしてから、宙に浮遊した腹部をしなやかに曲げ、彼女の瑠璃色の光沢をはなつ産毛の密集した腹部を把握器で挟んだ。
 ひとつがいはしばし向かいあい、世界のすべてがモノクロームに映る視覚で、おそらく見つめあいながら、腹と腹をなぶりあって前戯を愉しんでいた。すべてが白黒に見える蝶の目は、自らの翅の美しい水色光沢を見ることはなく、ただ紋様だけを識別する。彼らはおのおの小さな翅の模様が符号し、その肉体がたびたび触れ合うことに、互いが無二のかけがいのない、愛しい存在であるのをひとしきり確認しあっているかに見えた。彼は同意を得るために腹を擡げた。彼女は身を委ねた。そして彼は生殖腺のエキスに濡れて光った彼女の交尾栓に、ゆっくりと交尾器を挿入した。
 瞬間、ひとつがいは暁の空の色を吸った金色の鱗粉を振り撒き、光り輝いた。山の神が宿る森、ブナの原生林の中空で、ひとつがいは激しい快楽に翅をふるわせ、微細なそよ風の喘ぎと甘い緑の息吹の中で情熱をひとしきり燃焼させていた。彼らは互いに狂喜して、翅が破れ千切れ飛んでしまうほど羽ばたきながら、ブナの木立の高い場所へ、聖なる木立のさらなる高みへと浮上していった。
 やがて、彼らはもっとも高い梢まで飛んだところの宙ではたと止まった。すると一つになったまま、ふと生命を喪った抜殻のようにブナの梢を垂直に墜落した。藤木はその金色の軌跡を目で追うが、ひとつがいは途中で宙に消えてしまった。森の中空に、かれらの振り撒いた鱗粉とエキスとが混交した甘い愛の息吹だけが、漂っていた。……
 ……われにかえった藤木は、つがいの消えたブナの根元へと駆け寄った。ササがびっしり生えているのをそっとかきわけ、アオキ、イヌツゲ、イヌガヤなどが茂っているのを手でよけ、注意深く観察する。
 緑のブナの若木、その葉と葉のあいだに、翅を開いたまま静止している小さな蝶のようなものが見えた。しかしそれは天空の花である蝶ではなく、地上に咲くスミレサイシンという植物だった。
 ゼフィルス……。
 藤木は、森の緑の息吹に消えた蝶の名を呟いた。ギリシャ神話に登場するゼフィロス(そよ風の精)に由来する蜆蝶の一種だった。
 大規模林道工事のため、その森を伐採する工事車輛が入ったのは、それからまもなくしてからだ。

 

 ……藤木の立っていたキッチンとリビングを隔てる木のドアがそっと開いた。リビングの高い窓からの朝の光りが木の床にさぁっとこぼれ、裸足のくるぶしから腰までの長く白い裸の両脚を、肌の産毛まで際立たせてそこに立っていたのは、髪を下ろしたミサキだった。彼女は何も言わずに藤木を見つめてから、目を伏せた。

 

 藤木は仰向けのまま両腕で幻の蝶を捕まえるような手つきで、彼の男性に突き挿しにされて前後するミサキの白い腰や、果実のように張って汗ばんだ乳房をとらえようとした。ふと藤木は、もしかすると高梨がいつも見ているものを、こうして違う二つの穴から見ている、そんな観念を抱いた。
 ミサキの乳房は藤木の手をすりぬけるように、勃然となった乳首を上向きにして、彼女の底から突き上げてくるらしい激しい痙攣に震えた。藤木はミサキを自分の男性に挿したまま上体を起こして、その深雪のように深い胸の谷間に顔をうずめ、息のできない苦しみに悶えた。彼女の心臓から、小動物のような小刻みな鼓動が駆け上がってくるのが伝わる。
 藤木はミサキをそっと仰向けにした。すると目尻がやや引きつって、ますます無垢な、おののいてみえる表情に、藤木はかすかな罪悪感をおぼえてそっと自分の男性を抜いた。
 しばらくミサキは恍惚としていたが、急に何かを憶いだしたように手で乳房をおさえながら上体を起こした。
 ――どうした?
 ミサキは枕にしていた自分のバックを開けた。中から皺くちゃになって出てきたのは、ドーナツ屋の紙袋だった。ミサキは悲愴な声を上げながら、紙袋の中から、自身の頭の重みで潰れたドーナツをつまみ出した。彼女が藤木に初めて見せる、そのおかしいくらいに惨めな顔に藤木は笑った。
 ――……おみやげ、酔ったせいで忘れてた。
 ――形はわるいが、美味そうだ。

ミサキは恥ずかしそうに俯いて笑った。